file-107 国宝・火焔型土器はアートか?~縄文文化を探る旅(前編)

  

「土器」から縄文の豊かな文化を探る

 燃えさかる炎をかたどったような独特のフォルム。火焔型土器は、縄文時代中頃の約5,000年前に作られた土器のひとつの種類です。しかし、火焔型土器の出土は新潟県内の信濃川流域に集中。他の地域には、類型はあっても、あのデザインと大きさを備えた物はありません。なぜ新潟県内に集中しているのか、なぜあの形なのか、そして、火焔型土器が作られた時代の「新潟」ではどのような暮らしがあったのか――土器を手がかりとして、古代の謎にせまります。

古くて新しい火焔型土器

新潟県は火焔型土器のふるさと

国宝・火焔型土器

笹山遺跡出土、国宝・火焔型土器/十日町市博物館

 火焔型土器が作られたのは、5,300年前から4,800年前の約500年間と考えられています。その土器が現代人の目に触れたのは、製作時から約5,000年を経た昭和11年(1936)大晦日。長岡市の馬高遺跡を発掘していた近藤篤三郎さんが見つけたときです。その後、県内で共通の形やデザインを持つ土器が多く見つかり、平成11年(1999)には、十日町市の笹山遺跡から出土した火焔型土器を含む土器・石器類が国宝に指定され、広く知られるようになりました。
 

 

歴博 宮尾さん

「過剰な装飾がおもしろい」と、新潟県立歴史博物館の宮尾亨さん

 新潟県で唯一の国宝・笹山遺跡出土品は、現在、十日町市博物館に収蔵されています。特設展示のコーナーでは、縄文時代の人々の暮らしや芸術・文化を知るうえで極めて貴重な学術資料である火焔型土器や石器類の多くを実際に見ることができます。
 新潟県立歴史博物館・専門研究員の宮尾亨さんは、「同時代の土器の半分ほどが火焔型やそれに類する王冠型ですが、その存在感から縄文時代を象徴する土器になっています。パーツパーツを見ると、他地域との類似点もありますが、4つの大きな鶏頭冠突起(けいとうかんとっき)とフリルのような鋸歯状の縁取りの組み合わせなどパターン化されているのは、新潟の火焔型土器ならでは」と言います。
 

 

歴博 展示

火焔型土器90点などを展示する新潟県立歴史博物館の常設展示「火焔土器の世界」

 県内とはいえ、分布域の村上から糸魚川までは距離があります。大型の火焔型土器そのものを運ぶのは難しく、設計図や文字がなかったこの時代、人々はどのように作り方を伝えたのでしょう。「同じ言葉を使うエリア内で伝えあい、その際に、土器作り歌のような存在があったのではないでしょうか。そこに、地域それぞれの工夫や模様を盛り込んで、方言のように少しずつ変化して定着したのでは」と、宮尾さんは考えています。
 

 

十日町市博物館

十日町市博物館の菅沼亘さん(左)と、佐野誠市館長(右)

 一方、用途ははっきりしています。火で焦げた部分や吹きこぼれの跡があることから、火焔型土器も他の縄文土器同様、調理用の鍋でした。十日町市博物館館長・佐野誠市さんは、「世界の四大文明では土器は単純に器として用いられていましたが、日本の縄文土器は煮炊きをする鍋として用いられていました。深鉢形土器の下部に比べて上部が大きく張り出しているのは、煮炊きのふきこぼれを防ぐために考案されたのではないかという人もいるので、機能性も考えられていたかもしれません。火焔型土器は芸術性と実用性の両面を持ち合わせているのではないかと言われています」と話します。
 

 

歴博 土器作り

土器作りを担っていたのは女性。新潟県立歴史博物館「縄文人の世界」

 また、宮尾さんは、装飾が多いのは人々の崇拝の気持ち、世界観が表されているのかもしれないと、考えています。「土器で調理すると、固い物が柔らかくなり、あるいはアクが抜けて、食べられなかったものが食べられるようになります。そのときの感謝や土器のもつ不思議な力を装飾で表現したのかもしれません。土器は単なるモノではなかったのでしょう。現在でも調理容器を擬人化して、その部位を口や胴などの言葉で表現しますが、似たような感情は縄文人の方が強く抱いたのではないでしょうか。縄文人にとって、土器は単なる調理容器を越えた存在で、それゆえに過剰に装飾されたのではないでしょうか」遙かな時間を超えて、縄文時代と今はつながっているようです。

 

芸術家の心をわしづかみ

 火焔型土器の美術性について、佐野さんに伺いました。
 縄文土器を見て「なんだ、コレは!」と叫んだのは、芸術家・岡本太郎です。昭和26年(1951)、偶然、国立博物館で見た縄文土器に対して、「ドギっとする」と大いに驚いたことを「四次元との対話――縄文土器論」に記しているのだそうです。
 「土器のアシンメトリーで動的な、内面からわき出てくる美に感動した岡本太郎は、弥生時代以降のシンメトリーで静的な美が、わび・さびという日本の美意識につながるという、従来の考え方に疑問を抱きました。日本文化の原点にはいびつで不安定なパワーがあったのだとして、この後は民俗学的な視点を持って日本各地を巡りました。それが後に、大阪万博の『太陽の塔』などの作品につながったのかもしれませんね」
 岡本太郎は、その後に長岡市立科学博物館を訪れ、火焔土器を見て「火焔土器の激しさ、優美さ」と書き残しています。
 

 

津南 佐藤さん

「河岸段丘の風景は縄文時代と同じはず」と津南町教育委員会の佐藤信之さん

 デザインが何を表しているのかは諸説があります。最初に発見した近藤篤三郎さんの仲間たちは炎と見ました。十日町市博物館・学芸員の菅沼亘さんは「植物が芽吹いて伸びていく様子を描いて、春への喜びを表しているのでは」と考え、津南町教育委員会文化財班・文化財専門員の佐藤信之さんは、何を模したかを探るのは考古学の範疇ではないから、あくまでも想像の上でとしながら、「模様には、何らかの言葉や意味など物語が隠されている可能性があります」と言います。
 

 

火焔街道パンフ

出土は信濃川に沿って分布/信濃川火焔街道ガイドブック

 土器だけでなく、住居跡や道具、また当時の気象や地形、植物などを重ね合わせ思いを馳せると、森の民・縄文の人々の暮らしが見えてくる――ここに焦点を当てた取り組みがあります。新潟市・三条市・長岡市・十日町市・津南町による「信濃川火焔街道連携協議会」が発信した「『なんだ、コレは!』信濃川流域の火焔型土器と雪国の文化」が、平成28年(2016)4月、文化庁の日本遺産に認定されたのです。8,000年前に気候が変わり、深い雪が積もるようになった信濃川流域で生まれ、伝わってきたモノ作り、自然と共生する暮らし方。そうした文化こそ、日本文化の源流であるとして、「火焔」と「縄文」をキーワードに様々な展示やイベントを展開。地域の魅力を発信しています。
 「信濃川水系の上流の津南町から、河口の新潟市までをつなぐ『火焔街道』には、縄文時代の遺跡が集中しています。越後川口を境に上流と下流では、川の様相が変わり、深山・里山エリアと平野エリアのように生活環境も変わるので、石器の種類には大きな違いが見られます。土器についてもさらに研究を続けていくと、地域性や分布について、新しい見解が出てくるのではないか思います。そして、幻の布といわれる『アンギン』についても」と、佐藤信之さん。
 「アンギン」とは、縄文土器の底に残っていた痕跡から存在が明らかになった縄文時代の布です。後編では、いったんは途絶えたアンギンと技術復活への取り組みを紹介し、縄文文化の新たな側面に光をあてます。

 


■ 取材協力
宮尾亨さん/新潟県立歴史博物館・専門研究員
佐野誠市さん/十日町市博物館・館長
菅沼亘さん/十日町市博物館・学芸員
佐藤信之さん/津南町教育委員会文化財班・文化財専門員
佐藤雅一さん/津南町教育委員会文化財班・主幹学芸員

新潟県立歴史博物館
十日町市博物館
農と縄文の体験実習館「なじょもん」
信濃川火焔街道連携協議会


■ 参考資料
「日本の伝統」岡本太郎著 知恵の森文庫


※記事は、専門家の意見や取材をもとに原稿を作成し、確認を受けてから掲載をしておりますが、諸説があり、見解の違いから多様な文章表現になる可能性があることをご容赦ください。

 

後編 → 国宝・火焔型土器はアートか?~縄文文化を探る旅(後編)
『縄文と今をつなぐ「幻の布」』

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