file-79 解剖学のパイオニア 小金井良精

  

長岡生まれの解剖学者、小金井良精の生い立ち

長岡藩士の家に生まれる

 小金井良精(こがねいよしきよ)は、明治から昭和にかけて活躍した解剖学者・人類学者です。安政5(1858)年、長岡藩士小金井儀兵衛良達(よしみち)を父とし、同じく長岡藩士で「米百俵」の故事で有名な小林虎三郎の妹・幸(ゆき)を母として、長岡城下今朝白(けさじろ)に生まれました。当時、小金井家の家禄は百五十石。良達は御勘定組頭兼郡奉行を務めていましたが、やがて慶応4(1868)年、戊辰戦争がはじまります。

上京、医学の道へ…

 
 
学生時代の小金井良精

大学東校の学生時代。13歳で入学し、首席で卒業するなど、その秀才ぶりは目をみはるものがあります。

 戊辰戦争の戦禍を避けて、幼い良精は母に連れられて八十里越えをし、長岡から仙台まで落ち延びます。長岡の町は焼け野原となり、小金井家も家屋敷等を失いました。次男であった良精は、戦後、旧長岡藩士秋田家に養子に入り、明治3(1870)年、秋田家の家族とともに上京します。
 上京後、役人を志して英語を学ぶために入学した学校を、すぐに退学になります。薩長優先の時代背景が影響していたのかもしれません。良精は悩みますが、医学の道へ進むことを決め、あらためて大学東校(東京大学医学部の前身)に入学します。この時「医学こそ、世の中がどう変わっても決して揺らぐことのない学問である」と強く助言し、導いたのは、伯父である小林虎三郎でした。当時、大学の教授のほとんどがドイツ人、医学の授業はすべてドイツ語でした。そんな未知の環境の中で、良精は熱心に学び、大学東校を首席で卒業するのです。
    

故郷・長岡への想い

 
 
  桜井菜穂子さん
 

文書資料室の嘱託員となって8年目の桜井奈穂子さん。「小金井良精資料」の中にあった約500枚もの蔵書票を見つけたことがきっかけで、良精について学び始めたといいます。今では、良精を語るには欠かせない人物のひとりです。

 

 良精についての研修会講師などもつとめる長岡市立中央図書館文書資料室嘱託員・長岡郷土史研究会会員の桜井奈穂子さんは「長岡を離れ、中央で活躍するようになっても、片時も故郷を忘れたことはなかったようです」といいます。「ひとつのエピソードとして、彼の名前についてお話しましょう。実は「良精」という名前は、医学の道へ進むと決めた時に、自分で自分に付けた名前なのです。「良」は小金井家に代々受け継がれている字。「精」は長岡藩の第9代藩主牧野忠精(ただきよ)にあやかったのでしょう。故郷長岡への想いと、学問への意気込みが感じられるような名前ですよね」

ドイツ留学、生涯の恩師との出会い

 
 
  ワルダイエル文庫の蔵書票
 

ワルダイエル文庫の約2,000点の図書すべてに貼られている蔵書票。ドイツで撮影した写真がもとになっています。数字はワルダイエルの生没年です。

 

 大学卒業後、明治13(1880)年、医学の先進国ドイツへ留学した良精。留学先のストラスブルグ大学で、終生の師と仰ぐワルダイエルと出会います。ワルダイエルは、私たちが理科で学ぶ「染色体」を命名した有名な解剖学者です。彼のもとで熱心に学ぶ良精を見込み、ワルダイエルは良精を自分の助手に任命します。一緒にベルリン大学へ移ってからは、解剖実習の指導を任せるなど、お互いに信頼し合い、師弟関係を一層深めていきました。
大正10(1921)年にワルダイエルが亡くなると、良精は大学に働きかけ、彼の蔵書を引き取って整理し「ワルダイエル文庫」を創設しました。これらの書物は現在も東京大学医学図書館で、医学を志す学生たちに利用されています。
  

file-79 解剖学のパイオニア 小金井良精

  

研究にささげた生涯と家庭人としての一面

27歳の若さで教授に

 明治18(1885)年に帰国した良精は東大医学部講師となり、日本人として初めて解剖学の講義を担当。翌19(1886)年には27歳の若さで教授となります。
 良精の研究は、常に事実を基にした具体的思考と研究経過を明確に示しながら、真理を導き出そうとするものでした。研究者としての真摯な姿勢が表れている、良精の言葉を紹介します。「研究とは、注目されることの少ない、地味な仕事である。しかし、真理をめざし、思考と実験を反復するなかには、金銭でえられない味がある。また、業績を発表し、海外の学者から反響があると、こんな楽しいことはない。研究の業績は、才能でなく、努力によるところが多い。それだけのことは、必ずある」
  

人類学にも没頭

 
  

 良精は解剖学でなく人類学研究にも没頭します。北海道を旅行し、アイヌ人の生体計測と骨格資料の収集を行うなど、研究に励みました。日本の先住民族はアイヌであるとして、当時日本の人類学・考古学の草分け的存在であった坪井正五郎と「コロボックル論争」を展開します。
 昭和2(1927)年、「本邦先住民の研究」と題して御前公演を行いました。良精69歳の時です。「日本各地の貝塚から発掘された人骨をよく観察すると、屈葬・着色・装飾品など、埋葬状態に幾つかの興味ある事実が存在すること。貝塚から出る人骨は、貝よりも下の層から発見されること。また、日本の石器時代の人骨・アイノ(アイヌ)人の人骨・日本人の人骨それぞれの特徴を比較すると、石器時代の人骨は日本人よりもアイノ人に近い。他にも考古学上の事実を考慮した上で、アイノ人こそ本邦の先住民族である」と述べました。この結論は、良精がおびただしい数の人骨を計測し比較した結果、得られたものです。地味で先の見えない研究の中から真理をめざす…まさに、先に紹介した良精の言葉のとおりです。
  

家庭人としての良精

 
  

 良精の偉業は多大なものですが、その人柄についてものぞいてみましょう。
 明治21(1888)年、先妻と死別していた良精は再婚します。妻の名は喜美子。森鷗外の妹です。鷗外同様文学に秀でた喜美子との結婚は、良精の暮らしをより一層充実したものとしました。
 SF作家の星新一は、良精の孫です。星新一の著書『祖父・小金井良精の記』は、明治13(1880)年から昭和17(1942)年まで休むことなく記された良精の日記をもとに書かれました。新一にとって良精は「家族の中で最も好きだったおじいさん」。例えば、良精の部屋にあった研究材料の頭蓋骨。これをおもちゃにして遊んでいた新一に「この歯ならびは…」と真面目に説明を始める良精。新一が小学生の頃にプレゼントしたお手製のペン皿を生涯愛用していたこと。「東京大学名誉教授」という肩書からは想像できない「おじいさん」ぶりや、誠実で素朴な人柄を、孫ならではのエピソードを交えて伝えています。
  

研究にささげた生涯

 小金井良精・胸像
 

東京大学にある良精の胸像。頭蓋骨を抱き、ノギス(計測機器)を持っているところが、生涯を研究に捧げた良精を象徴しているかのようです。

 

 晩年を迎えても、良精の研究意欲は衰えることはありませんでした。年末年始も休まず大学へ出勤し、暖房設備のない名誉教授室でひとり研究材料の骨を洗う良精。80歳を過ぎても妻の喜美子に付き添われて大学へ通い、研究を続ける良精は、いつしか「仙人」と呼ばれるようになりました。
 昭和19(1944)年、家族に見守られ、良精は静かに息を引き取りました。その身体は剖検(医学のための献体)のため、70余年通った東大赤門をくぐりました。これが、最後の出勤。解剖学者としての最後の責務を全うしたのです。
 

    


■取材協力
桜井奈穂子さん(長岡郷土史研究会会員、長岡市立中央図書館文書資料室嘱託員)

■写真提供
岡本洋子さん(小金井良精のひ孫)

■主な参考文献
星新一『祖父・小金井良精の記』上・下巻(河出書房新社、平成14年)
桜井奈穂子「小金井良精とワルダイエル先生~蔵書票をめぐる旅」(『長岡郷土史』第46号、長岡郷土史研究会、平成21年)
桜井奈穂子「連載 長岡の碩学(10)小金井良精」(『長岡あーかいぶす』第10号、長岡市立中央図書館文書資料室、平成23年)
『ふるさと長岡の人びと』(長岡市、平成10年)
    

 

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県立図書館おすすめ関連書籍

「もっと詳しく知りたい!」、「じっくり読みたい!」という方、こちらの関連書籍はいかがでしょうか。以下で紹介しました書籍は、新潟県立図書館で読むことができます。貸し出しも可能です。ぜひ、県立図書館へ足をお運び下さい。

▷『郷土の碩学』

(小田大蔵[ほか]著/新潟日報事業社/2004年)請求記号:N /281.4 /O17
 明治・大正から昭和にかけて、新潟県が輩出したすぐれた学者67名を取り上げ、その功績をまとめた1冊です。小金井良精については「日本解剖学の先駆け」と題して、その研究内容から、友人で義兄でもあった森鴎外に関わるエピソードまで紹介されています。なお、本書で紹介されている長谷川泰は、良精が医学の道を歩み始めた大学東校(第一大学区医学校・東大医学部の前身)の校長であったことが、星新一著『祖父・小金井良精の記』の中でエピソードとともに記されています。良精と同時代を生きた新潟県出身の学者たちの気風や、その時代の雰囲気を感じることができる1冊です。
※『祖父・小金井良精の記』(星新一著/河出書房新社/1974年)は、県立図書館で所蔵しています。(請求記号:913.6/H92)
     

▷『米百俵と小林虎三郎』

(童門冬二・稲川明雄著/東洋経済新報社/2001年)請求記号:N /289.1 /Ko12
 良精の伯父である小林虎三郎については、長岡にゆかりのある方はよくご存知かもしれません。本書は、歴史作家の童門冬二氏による「小説米百俵―小林虎三郎独言―」と、河井継之助記念館館長の稲川明雄氏による「小林虎三郎とその時代」の2部で構成され、虎三郎の思想、生涯が描き出されています。
 東大教授となった良精は、学生に厳しく、そして真摯に向き合ったことが、『祖父・小金井良精の記』に記されています。その考えの根本には、教育を重視した虎三郎の精神が継承されていたことでしょう。
     

▷『新潟県文学全集 第2期 随筆・紀行・詩歌編 第3巻 昭和戦前編』

(郷土出版社/1996年)請求記号:918.6 /N72/2-3
本書は、良精の妻・喜美子の紀行文「越路の秋」を収録しています。昭和3年秋、亡父の五十回忌、亡母の十三回忌の法要で長岡に帰郷した良精に同道して書かれた本文は、多くの短歌が収められ、文語体で流麗なものになっています。現代の私たちにはやや読みにくいようにも感じられますが、長岡の風景や、戊辰戦争への追憶などが趣深く綴られています。

 このほか、小金井良精の著書『人類学研究』(大岡山書店/1926年 請求記号:469/Ko25)なども当館で所蔵しています。また、当館と県立文書館がインターネットで公開している「越後佐渡デジタルライブラリー」では、小林虎三郎の書(「小林病翁 漢詩(書)」)や、佐久間象山による跋文(「岱海堂擡言仲氏易跋文」)などのデジタル画像がご覧いただけます。

「越後佐渡デジタルライブラリー」
      

      
ご不明の点がありましたら、こちらへお問い合わせください。
(025)284-6001(代表)
(025)284-6824(貸出延長・調査相談)
新潟県立図書館 http://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/

 

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