金島集

室町時代、世阿弥がその最晩年に佐渡に配流され、各地を旅した際に記した紀行文ふうの小謡曲舞集。旧安田町出身の地理学者・吉田東伍が明治四十二年に発見し公刊した『世阿弥十六部集』の中で初めて紹介した。世阿弥が佐渡に流されていた事実が一般に知られるきっかけとなったもので、当時の佐渡国の様子を知る上でも貴重な資料。

    若州  (七十、八十の衰翁の遠行なること著し)

 永享六年五月四日都を出で、次日若州小浜と云う泊に着きぬ。ここは先年見たりし処なれども、いまは、老もうなれは定かならず、見れは、江、めくりめくりて、磯の山、浪の雲と連なって、伝へ聞く、唐士の遠浦の帰帆とやらんも、かくこそおもひ出られて歌ふ「船とむる、津田の入海見わたせは」…五月も早く、立花の、昔こそ身の若狭路とみえしものを、いまは老の後せ山、され共、松は緑にて、木深き木梢は、気色立つ、青葉の山の夏陰のうみの匂ひにうつろひて、差すや潮も、青浪の、さもそこひな水際は哉、「青苔衣を覆て、岩をの方にか掛り、白雲帯に似て、山の腰を廻る」と白楽天か詠かめける。東の船、西のふね、いて入る月に、影深き、しん陽の江のほとり、如是耶と想ひ知られたり。

    海路

 只うたかくて、順風時至りしかは、ともつなを解、船に乗り移り、海上に浮かむ、さるにとても、佐渡の島まては、何程の海路やらんと、たづねしに、水主答ふるやう、はるはるのふな路なりと申しほとに、下「遠くとも君の御蔭に、漏れてめや、八島のほかにも、おなしうみ山」上「今そしる、きくたに遠き、佐渡のうみに、老のなみ路の、舟の行く末」万里の波涛におもむくも、下クリ「たた一帆の道とかや、一葉の舟には、千果万徳の通所あり、曲こせさわ「実にや世の中は、なにに喩とゑん、あさほらけ、こき行ふねの路も」はや、幾瀬のんみを越えぬらん、此海まんまんとしてうんちうに一島なし、東を遥に見わたせば、五月雨の空ながら、その一かたは、夏もなき、雪の白山ほのみえて、雲まや遠くのこるらん、猶行末も、旅ころも、能登の名に負ふ、くにつかみ、鈴のみさきや、七しまの海岸はるかに映ろいて、入日をあらふ沖つ波、そのまま暮れて夕闇の、螢もみる、漁り火や、よるの浦をもしらすらん、上「棚引く雲の立て山や、あけゆく、天の戸波山、栗柄峰まてもそれそれとはかり三越路の、ふねはるはると漕きわたる、すえのあり明のうらの名も、月をそなたのしるへにて、浪のよるひる行ふねの、去ること速き、年の矢の、下の弓張りの月もはや、曙の波に松みえて、早くそ、爰に岸影の、爰はと問は、さとの海、太田の浦に着にけり、

    はい処  (閑居の様態を叙せり)

 只ことば「その夜は大田の浦に留まり、あまの庵の、磯枕して、明れは、山路をわけ登りて、笠借りと云たうけにつきて、駒をやすめたり、ここはみやこにてもききし名ところなれば「山はいかてか紅葉しぬらん」夏山楓のわくらはまても、心あるさまにおもひ染めてき、そのまま山路をおりくたれば、長谷と申て、観音の霊地わたらせ給、こきやうにても、ききし名仏にてわたらせ給へは、懇ころに礼拝して、その夜は雅太のこほり、新保と云うところにつきぬ、国のかみの代官、受け取りて、満腹寺と申小院に宿せさせたり、この寺のありさま、うしろには、寒松藾立て、未来秋さそふ山風の、庭の木すゑに、音つれて、影は涼しき、やり水の、苔を伝いて、いわかきの、露も雫も滑らかにて、まことに星霜ふりけるありさま也、御本尊は、薬師霊仏にてわたらせ給よし、主の御僧のおほせられしほとに、いととありかたきここちして、下歌「かし妙香の春の花、十悪の里までも匂ひをなし、しゆひやう真如の秋の月、こちよくの水に宿るなる、誓ひの陰もあらたにて、庭のやり水の、月にも澄む心也、しはし身を奥築処、ここなから、ここなから、月はみやこの雲居そと、おもひ慰むとこそ、老の寝覚めの便りなれ、けにや、罪無くて、配所の月をみる事は古人の望みなるものを身にも心のあるやらん、

    時鳥  (為兼御配所の俗諺を取りて種となしたるものなり)

 只詩「さて、西の方を見れば入うみの浪、白砂雪を覆ひて、みなしろたへにみえたるなかに、霜林一簇みえて、まことに春二月の気色なるへし、この内に小堂まします。八幡宮勤請の霊社也、されは、ところをも八幡と申、敬神のために参詣せしに爰に不思議なる事あり、都にては、待ち聞きし時鳥、この国にては、山路は申に及はす、かりそめのやとの木すゑ、幹の松枝まても、耳かしましきほとるなか、このやしろにては、さらに鳴く事なし、これはいかにと尋ねしに、宮人申やう、これはいにしへ、為兼の郷の御配処也、あるとき、時鳥のなくをきき給て、「なけはきく、きけはみやこのこひしきに、この里過きよ、山ほとときす」とよませ給しより、音を停めてさらになく事なしと申、けにや、花になく鶯、水に栖む蛙まて、歌をよむ事こまとなれは、ほとときすも、同し鳥類にて、なとか、心のなかるへきとおほえたり、上歌「落花きよくふりて、郭公初めて鳴き、名月秋を送りては、松下に雪をみる」と古き詩にもみえたれは、おりを得たりや、ときのとり、やみことりにもきくなれば、声を懐かしほとときす、唯啼けや、唯啼けや、老の身、われにも故郷をなくものを、

    泉  (順徳院の行在旧跡を尋ねたる懐古篇なり)

 只詩「又、西の山もとをみれは、人家甍をならへ、みやこと見ゑたり泉と申すところなり、これはいにしへ、順徳院の御配処也、しかれは、御製にも「かきりあれは、萱か軒はの、月も見つ、しらぬは人の、行すゑの空」けにや、十善万乗の御聖体、さしも余薫の御陰とて、その名もたかき、山さくら、梢の花とさかえん、雲居の春の長閑さもいまさもして、天さかる、鄙のなか路の御住まひ、おもひやられて傷わしや、ところは萱か軒はの草、忍ふの簾、絶え絶え也、下歌「夕立おつる庭たつみ、これもや泉なるならん」上「下潜る、水に秋こそ、通ふらし、通ふらし、結ふいつみの、てさえ涼しき」、おりおりに、御衣の袂心や絞れけん、「けにや、人ならぬ、岩木もさらに、かなしきは、美豆の小島の秋の夕暮」となかめさせ給しも、御身のうへとなりにけり、下「しき摘む山路の露に濡れにけり、暁興の、炭染め」袖も同し、苔蓆の、たれそ錦の御褥ならん、傷わしや、上「薪採ろ、遠山人は帰る也、里まで送れ、秋の三日月」も、雲の端に、ひかりのかけの、うま世をは、君とても、逃れ給はめや、さてこそ、ゆふならく「奈落のそこに入ぬれは、刹利も、首陀も、かはらさりける」となり、「けにや、蓮葉の、濁りに染まぬ、心もて」泉の水も、君住まは、すすしき道となりぬへし。

    十社  (当国十社の神に訴へて法楽として祝言を呈したる一篇なり)

 只詩「かくて国に軍をこりて、国中おだやかならず、はい処も、合戦のちまたになりしかは、在所をかえて、いまの泉といふ所に宿す、さるほとに、秋さり冬くれて、永享七年の春にもなりぬ。奚は当国、十社の神まします。敬神のために、一曲を法楽す、サシコト「それ人は天下の神物たり、きねかならはしに因りて、威光をまし、五衰の眠り無上正覚の月に醒まし、衆生らも、息災延命と、まもらせ給、御誓ひ、けに、ありかたき御陰哉、神のまにまに詣てきて、歩みを運ふ、宮巡り、けにや和光同塵は、和光同塵は、結縁の御初め、八相成道は、利物の終りなるへし、やまちと秋津洲のうちこそ、御代のひかりや、玉かきの国豊にて、ほうねんを楽む、民の時代とて、けに九の春ひさに、十の社は曇りなや、

    北山  (当国の神秘と伝へらるる所の古伝説をききて之を歌曲になししなり)

 只詩「かくて、ふるき人にあいて、当国の神秘結界、たつねおくなり」上歌「抑我朝、蜻?洲しまと申は、粟惨辺土の小国なりとも、天地開闢の国にして、天照大神の御すゑ、正しく正統を戴く事、いまに絶えせず、ササ事「しかれは、国の名をとへは、神道において、さまさま也、まつ大日本こくにとは、青海原の海底に、大日の金文あらはれ給しより、後代に、名つけし国とかや、しはらく、これをおもんみれは、その科科も一ならぬ、八島の浪のよりよりに、粗粗語り申べし」曲舞「そのはしめをおもんみれは、天祖の御譲りに、あまのうきはしより、ひかりさしおろす、桙まの国の淡路をはしめとして、あれは南海にこれは北海の佐渡のしま、胎金両部を備へて、南北に浮かむ、かいしやうの四涯をまもる、七葉の黄金の蓮のうへよりも、浮かみ出てたつ国として、神の父母とも、この両島と云とかや、それは北野の御製にも「かのうみに、こかねしまの、あるなるを、その名を問へは、さとと云也」この御神詠も、顕然にて、妙なる国の名もひさし、上歌「然れは伊弊諾、伊弊冊の、その神の代のいまことに、御蔭を分て、いさなきは、熊野の権現とあらはれ、南山の雲に種蒔て、国家を治め給へは、いさなみは、白山権現と示視し、北海に種を収めつつ、菩提涅般の月かけ、この佐渡の国や、北山、まい月まい日の影向も、いまにたえせねは、こくとゆたかに、たみあつき雪の白山も、いさなみも、おさまる佐渡の海とかや、下「抑、かかる霊国、かりそめなから、身ををくも、いつの他生の縁ならん、うしや、我雲水の住むに任せて、そのままに、衆生諸仏も相犯さす、山は自つから高く、海は自つから深し、かかりつくす、山雲海月の心、あらおもしろや、佐渡の海、満目青山猶自つからその名を問へは佐渡といふ、こかねの島そ、妙なる。

 これをみん、のこすこがねのしまちどり、

    跡もくちせめ世世しるしに、

  永享八年二月

                  沙 弥 善 房