青砥武平治
1713-1788。個人の記録は少ない。村上藩士金沢義左衛門の次男として生まれ、同じ藩士の青砥家の養子となり、三両二人扶持からスタート。54歳の時に70石という異例の大出世を果たしています。この頃は運上金が300両に届いており、種川の制の功労者と認められたと見られます。また、種川の制の試行錯誤の間、川せき止めなどを行ったため上流の住民と争いとなり、柵を焼き討ちされる事件が起きました。裁定は幕府にゆだねられ、この時の責任者が武平治。藩の全面勝訴で終わっています。彼が種川の制自体、つまり鮭の母川回帰の性質を発見したという記録はなく、村上の人々の昔からの経験則を取り入れたか、もしくは「小さいうちは捕獲しない」を発展させたものとみられます。