特集 File02
撮影:中村 脩

file-2 佐渡の能

 

 世界遺産にも登録された日本独特の芸能、能楽。世阿弥によって作り上げられた世界観は足利義満に始まり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康や時々の為政者に愛好され、武士の芸能として広まりました。しかし、ここ佐渡では農民の芸能として生活の中に根を下ろし、今も島の人々に愛されています。かつては200もあったといわれる能舞台。現在も33の能舞台が残っています。これは日本全国の能舞台の1/3という数です。そして春には一斉に薪能が舞われ、神社の祭となればまた舞われます。大変ユニークな佐渡の能文化をご紹介します。

世阿弥、佐渡遠流

べしみと呼ばれる面

正法寺に伝わるべしみと呼ばれる面。能成立以前の面で、世阿弥が持っていたとも伝えられる。諸説はあるが、県内では現存する最も古い面である。県指定文化財。

1434年、能の大成者 世阿弥 は旧畑野町多田の浜に降り立ちました。この時72歳。最初は現在の市役所近くにあった万福寺に預けられ、ほどなくして正法寺に移されました。この寺で世阿弥が舞を奉納した記録が残っています。

佐渡に流される人々は、承久の乱で流された 順徳上皇 や 日蓮 がそうであったように政治犯でした。佐渡にある限りは比較的自由な暮らしが許されていましたが、一度の奉納舞を除けば世阿弥が佐渡で能を披露したという記録はなく、人々に能を広めた形跡もありません。

世阿弥の罪が許されたのは、彼を罰した足利義教が暗殺(1441年)されてまもなくのことでした。しかしその何年か前からの世阿弥の足取りは、今も謎とされています。佐渡で亡くなったとも、帰京し何かと世話をしてくれていた娘婿の金春禅竹の元へ身を寄せたとも、あるいは別のどこかで亡くなったともいわれます。
佐渡で彼は「 金島集 」を著しています。この写本が発見されたのは明治41年。発見したのは阿賀野市出身の地理学者吉田東伍でした。これが「世阿弥十六部集」として発表され、世阿弥と佐渡とのつながりが世に知られるようになったのです。

初代佐渡奉行 大久保長安

春日神社能舞台

06年相川で再建された春日神社能舞台。かつて春日神社にあった能舞台は既に知る人がなく、羽茂にあった能舞台の一部を移築して建設。当初の姿ではない。住民らの手によって寄付を募っての再建となり、現在も寄付を募集している。

相川で金が見つかった1601年以降、佐渡は遠流の島から天領に変わり、その中心地相川は世界的な人口周密地域になってゆきました。その礎を築いたのが1603年に佐渡代官として赴任した 大久保長安 です。彼は武田信玄に仕えた猿楽師の息子に生まれ、徳川家康に才を認められて石見銀山などの開発を手がけましたが、能を愛好することでも知られていました。尤も当時の武士の間では豊臣秀吉が能好きで知られていたように珍しいことではありません。大久保長安就任以前も、守護代として実質的に佐渡を支配していた 本間氏 が能楽師を招いたことが知られています。

長安は就任翌年の1605年、自ら建立した 春日神社 で能を奉納します。舞ったのは彼が大和から招いた常太夫と杢太夫。両名はその後も相川に留まり、人々に能の手ほどきをしたと伝えられます。

佐渡能始まる ところが天領佐渡では、相川という人口周密地域に加えて広い国土に対して支配する側の人数は圧倒的に少なく、しかも数年で交代するという土地柄。比較的自由な気風が育まれたのでしょうか。神事として演能が開かれたことも相まって町民や農民でも能に接する機会が広く与えられていたようです。

佐渡宝生流

佐渡守護代の家系につながる両津の本間秀信は 宝生流 の能太夫として帰国したのは1613年のことでした。天領の中枢である大都市相川以外の農村地域に、新たな能の拠点が誕生したのです。当時はまだ大久保長安が大和から呼んだ常太夫、杢太夫もまだ相川を中心に後進の指導に当たっていた時期です。この両名は観世流であったとみられていますが、本間家は次第に佐渡一帯に勢力を伸ばし、相川の演能にも影響力を持つようになります。

1620年代になると相川で 遠藤家 が観世流を学んで島に戻ります。脇師として長らく本間家とともに演能を行い、江戸後期には本間家と組んで島外へも興行に出ていました。後に遠藤家からは観世流宗家の直弟子を輩出し、佐渡に観世流を興しました。このように、佐渡では独自の能を育みながらも、能の本場とのつながりもまた大切にしてきたのです。

佐渡の能舞台

かつては200もあったと伝えられる佐渡の能舞台は、そのほとんどが神社に所属するものでした。大久保長安が神事として能を広めたということもあったのでしょうが、佐渡の人々が集落ごとに舞台を持ち、演能を持とうとした気持ちがここには現れています。神社は集落の神様を奉ると同時に、ムラの集会場でもあったからです。

普通、能舞台は3間四方の間に柱、屋根、そして橋懸かりが基本ですが、佐渡の能舞台は3間四方に満たない小振りなものも多く見られます。以前は神社の社と兼用したり、演能の時だけ組み立てるよう普段は部材をバラバラにして保管している集落もありました。佐渡の能舞台は、佐渡島民独自の能の楽しみ方や工夫のほどを今に伝えています。

 

佐渡能の最盛期

大膳神社能舞台

佐渡に現存する能舞台の中では最も古い大膳神社能舞台。鏡板と呼ばれる舞台背景には、通常松が描かれるが、この能舞台には常にはない日輪も描かれている。

佐渡で最も能が盛んだったのは、幕末から明治、大正とされています。明治の末に佐渡を訪れた 長塚節 は、ホトトギスに発表した 紀行文 の中で羽茂の博労(牛の仲買人)に連れられて神社で能を観た時のことを書いています。彼はこの時生まれて初めて能を観たのですが、舞っているのが昼間ムラで見かけた桶屋であり、宿の主人であることに驚きを隠せずにいます。

佐渡の能の楽しみ方は、集落の祭のようであったといわれます。一家で弁当を作りゴザを敷いて神社の境内に座り、もちろん酒も飲んだようです。現在佐渡で最も新しい能舞台は2006年に建てられた相川の春日神社能舞台です。相川は、佐渡の能の発信地でありましたがその後は農村部で盛んとなり、明治初年のころには能舞台が一つもなくなっていました。それを地元有志が羽茂滝平地区の使われていない能舞台を移築して建てたのが春日神社能舞台です。

落成祝いに薪能が奉納された時のこと。地元相川の人々は明治から能舞台がなくなっていたため演能に接する機会はあまりなく、かしこまって境内に集まりました。ところが元の能舞台を所有していた滝平地区の人々だけは別だったといいます。まずはゴザを広げ、始まる前から弁当を広げて酒を飲み始めたそうです。「佐渡の能はああいうもんだったのかと。ムラの運動会みたいなもんで、集まって酒を飲むものだと分かった。滝平の人だけへべれけになっていた」と、相川の人は驚いたと言います。おけさ柿で知られる羽茂地区は現在佐渡で唯一、集落に住む人だけで演能が行える座を持っており、最も能が盛んな地域の一つです。

昭和に入ると戦争による男手(つまり能の担い手)の不足などで佐渡能は次第に上演回数が減り、佐渡の人口も減ったことで能舞台の維持そのものが難しくなりました。その一方で春日神社の能舞台再建や後に述べる鷺流狂言の地域を上げての伝承など、佐渡の伝統を守ろうという様々な運動があり、佐渡能は広く全国に知られるようなっています。しかし荒れるに任せた神社や能舞台も多く、それらをどう残し、どう活かしていくかは大きな課題にもなっています。

佐渡鷺流狂言

能の幕間で演じられる滑稽味のある狂言は、能とひとそろいの芸能です。元々は三流あった流派のうち、明治維新後に廃絶した 鷺流 が佐渡では今も残っています。江戸時代の後期に江戸で鷺流狂言を学んだ両津の葉梨源内が佐渡に戻りこれを島内に広め、幕末には宗家の高弟に師事した三河静観が来島します。この人は最後の佐渡奉行鈴木重嶺の用人でしたが、明治維新後もそのまま佐渡で暮らしました。そこへ三河静観を頼って鷺流宗家最後の鷺権之丞がやって来ます。権之丞は数年間佐渡に滞在し鷺流狂言を島の人々に指導したといわれます。

昭和19年に三河の弟子で佐渡で天才として知られた天田狂楽が亡くなり、佐渡の鷺流狂言は滅びたとされました。ところが昭和50年代に、真野の鶴間兵蔵という人が弟子たちに鷺流狂言を伝承していたことが分かります。これは佐渡の芸能の裾野の広さと奥深さをかいま見せてくれる事例です。鶴間兵蔵は東京で鷺流狂言師に学び、後に宗家権之丞にも弟子入りし鷺流狂言の正統を身につけた人でした。現在真野では彼の伝承者たちが狂言を演じ、今も伝承活動を行っています。

 

参考文献

相川町史 近・現代
「佐渡の能舞台」若井三郎 昭和53年 新潟日報事業社
「天領佐渡?島の幕末」田中圭一 1992年 刀水書房
「佐渡の能組 佐渡能楽資料第一集」若井三郎 昭和61年
「新潟発」05年夏号 佐渡へ 知っておきたい「能ものがたり」磯部欣三

「図説佐渡島歴史散歩」佐渡博物館 98年 河出書房

 

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