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file-5 上杉謙信と戦国越後 義に生きた希代の戦国武将


謙信の死後

上杉謙信公の御墓(林泉寺)

上杉謙信公の御墓(林泉寺)

 謙信が出陣したのは、長野、群馬、埼玉、栃木、茨城、神奈川、富山、石川県に及んでいました。北陸方面では獲得した城を守ったものの、関東方面では敵を追い出した城を放置して戻ってくるようなことをしていたので、亡くなってみれば謙信の領土は越後、越中、能登と上野及び信濃のそれぞれ一部でした。謙信は戦費を主に青芋という布を作る植物の流通から上がる税によって賄っており、京で高値で取引された青芋と越後布を運ぶため、日本海側の航路の安全が死活問題でした。北陸方面の領土をしっかり守ったのはこのためと見られています。謙信が亡くなった時、春日山城には2700両余の金があったと伝えられています。

 跡継ぎを明言しないまま急死したことによって、上杉家では二人の養子と家臣団、武田、北条、芦名氏など国外の勢力も巻き込んだ相続争いが勃発します。一人は謙信が長尾家を相続する前後にさんざん敵対した上田長尾政景の息子の景勝。もう一人は敵対した後同盟を結んで再び戦った北条氏康から養子にした景虎。先に春日山城に入って金を手にしたのは景勝でしたが、家臣と実家の北条氏、武田勝頼を味方につけた景虎が優位となります。しかし景勝は武田勝頼と結び状況を一転させます。条件は領土の割譲と太刀1腰、馬1疋、銭1000疋でした。


上杉家御廟所(米沢市)

上杉家御廟所(米沢市)

 この内乱《=御館(おたて)の乱》の間に織田勢は能登、越中を獲り、会津の芦名氏が越後に侵攻、伊達輝宗も揚北衆と結びます。跡目争いの一方であった景虎が自害した後も戦乱は収まらず、ようやく終息したのは謙信の死後9年を経ていました。北条と同盟していた武田勝頼は、態度を変えて景勝についたために北条氏を敵に回し、これが武田家滅亡の遠因になったといわれています。家督を相続した景勝は北陸方面で織田勢の猛攻に遇っていましたが、1582年織田信長が死去、その後覇権を握った豊臣秀吉の求めに応じて上洛。前田利家、徳川家康などとともに五大老の一人に列せられました。1598年には会津、米沢、佐渡を含めた120万石の大名となり越後を離れます。御館の乱という混乱の中から再スタートしたことを思えば、景勝と腹心直江兼続の手腕もまた神業的というべきなのかも知れません。その後徳川家康と対立し米沢30万石に国替えとなりましたが、米沢の地で上杉家は滅ぶことなく明治を迎えます。米沢では謙信を開祖として神社に奉り、今も大切に守っています。

ゆかりの地を訪ねる旅 上越市


協力:新潟県立歴史博物館

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