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file-5 上杉謙信と戦国越後 義に生きた希代の戦国武将

 「戦国時代最強の武将」の誉れ高い上杉謙信は、新潟県上越市で生まれました。19歳で守護代長尾家の家督を継ぎ49歳で亡くなるまで関東一円、信濃、越中をも駆け巡った謙信。希代の武将と戦国越後は、どのような歴史を歩んだのでしょうか。

上杉謙信とは何者か

林泉寺惣門

林泉寺惣門

 上越市の 林泉寺惣門 にはかつて、謙信自筆といわれる「第一義」の文字が掲げられていました。戦場にあれば最強と怖れられ、家督を相続してから亡くなるまでの30年間のほとんどを戦に費やしても負けらしい負けはありませんでした。神仏に誓いを立てて戦に望む戦国武将は珍しくありませんが、「生涯不犯」の誓いを立てて妻を持たなかった戦国武将は多くありません。

 生まれる前から続いていた内乱をまたたく間に制圧する一方、その後も度重なる家臣の裏切りに遭います。しかしその度に家臣を許してしまいます。また、和歌と琵琶を愛する風流人でもありました。

 謙信にはさまざまな伝説があります。相模の北条氏と険悪になって塩止めされていた武田氏の甲斐に塩を送ったとか、信玄は亡くなる前に「頼るならば謙信を頼れ」と遺言したとか、謙信は実は女性だったとか…。今となっては確認しようもないことですが、確認し得る歴史的事実をつなぎ合わせても謙信の人物像は容易には見いだせないのです。そうした破格な戦国武将が上杉謙信という人でした。一体どんな人物だったのか、以下はあなたなりの謙信像を探すための手がかりにして下さい。

家督相続まで

 7歳で林泉寺に預けられ、6世住職天室光育の薫陶を受けていた長尾景虎(のちの謙信)は、13歳で寺から呼び戻され元服。 栃尾城 (長岡市)に入城します。景虎が生まれた長尾家は、越後守護上杉氏の家来で守護代として越後で大きな権限を持っていました。父 為景 の隠居によって家督は兄の 晴景 が継いでいましたが、越後の他の勢力の抵抗に遭い、対応に苦慮していました。

 越後の他の勢力とは、どのようなものか。まず一つ目は長尾一族の中にありました。守護代として越後に根を張っていた長尾氏は、当時の政治の中心地府中(上越市)にあって守護代を出す 府内長尾氏 、関東へ出入りする街道沿いの魚沼地方を勢力範囲とした 上田長尾氏 (魚沼市)、新潟県中部の平野部を勢力範囲とした古志長尾氏(長岡市)があり、必ずしも協調していたとはいえない状況が続いていました。上田長尾氏の政景は坂戸城を拠点に、謀略や武力をもって公然と府内長尾氏に対抗しました。

 二つ目の勢力は守護上杉氏です。守護は京にあって、越後にいる守護代から米や金を送られていました。上杉氏が京を引き揚げて自ら越後を支配しようとしたことから守護代の長尾氏と対立し、父の為景は主である越後守護上杉房能を急襲し自害に追い込んでいます。これが越後で起きた最初で最後の下剋上でした。しかし関東の 上杉一族 の助力などもあり、為景は越後の実権を手にする間もなく戦に追われ、進退窮まって息子晴景に家督を譲ったのです。

 三つ目の勢力は 揚北衆 と呼ばれる国人たちでした。南北に長い越後は、現在の富山、長野県境に近い南部の府中が政治の中心地。北部にはその勢力が届いていませんでした。福島県から新潟市に注いでいた阿賀野川(昔は揚川と呼ばれた)より北の地域では、色部、中条、黒川、本庄氏などが領主としてそれぞれに領地を統治し、状況に応じて協力したり対立したりという微妙な関係にありました。長尾氏に対しても、それぞれの利害によって協力したり敵対したり、また状況に応じて隣接する福島県の伊達氏や芦名氏、山形県の大宝寺氏と結んだりもしました。そもそも隣県の勢力は政情不安定な越後で勢力拡大をもくろむ存在。それらの足がかりを作りかねない揚北衆は、府内長尾氏にとっては非常にやっかいな存在でした。

栃尾城跡(長岡市)

栃尾城跡(長岡市)

 景虎が栃尾に入城したのは、この3つの勢力がその時々の利害によって離合集散し兵を挙げるような内乱のさなかでした。栃尾入城直後から敵を蹴散らして注目を集めた景虎は、為景によって義父を殺された越後守護 上杉定実 の後ろ盾によって春日山に入城します。19歳の時のことでした。

 長尾家の家督を継いだからといって、すぐに抵抗勢力がひれ伏したわけでも、戦によって相手を滅ぼしたわけでもありませんでした。主(あるじ)の守護上杉定実を立てつつ、領主間の土地境界の紛争などに積極的に介入したり、寺社の所領を安堵したりすることで「統治者」としての実績を重ねました。一方で京の室町幕府とのつながりを持つことで、統治者としての権威付けも欠かしていません。守護上杉定実が子のないまま亡くなった1550年、幕府から 白傘袋と毛氈鞍覆 の使用を許され「守護と同等」の地位を公認されました。景虎は21歳になっていました。

戦国の雄として
リージョンプラザ上越前の謙信像

リージョンプラザ上越前の謙信像

 景虎が 武田晴信 (のちの信玄)と初めて 川中島 で向かい合ったのは1553年。景虎24歳、晴信は33歳の時のことです。両名は続く11年の間に5回の戦いを経ることになります。晴信は既に信濃の南部、中部を手に入れており、北信濃を落とせば信越国境に迫ることになります。晴信に追われた北信濃の 村上義清 に支援を求められての出陣でしたが、景虎にしてもこれ以上晴信の北進を許すわけにはいかなかったのです。春日山城のある府中は信越国境とは目と鼻の先でした。

 時を同じくして、守護上杉家の一族である 関東管領上杉憲政 が景虎を頼って府中を訪れます。

 関東管領とは室町幕府の要職で、関東地方一体を治めていましたが既に有名無実となっており、相模(神奈川県)の 北条氏康 に追われて越後に逃れてきました。景虎は上杉憲政に館を建てて迎え、およそ10年後に関東に向けて出陣します。景虎が上杉氏を継いで長尾から上杉となったのは、北条氏康の小田原城を脅かした後のことでした。この頃から亡くなるまでの間、上杉謙信(将軍から一字もらい輝虎など、何度か名前を替えているが紛らわしいので謙信とする)は毎年のように関東、越中に出陣しつつ信玄とも対決。一年のほとんどを戦場で過ごし、冬場を群馬県の 厩橋城 (前橋市)などで過ごすこともありました。

 一方、国内では新潟県北部の村上市を本拠地にしていた 本庄繁長 が武田信玄と結んで反乱を起します。これを鎮圧した謙信は繁長の詫びを受け入れて再び家臣として重用します。関東の厩橋城では、城を任せていた 北条(きたじょう)高広 が離反して北条方についてしまいます。本庄繁長の一件は武田信玄の謀略の一環で、上杉の家臣を味方に引き入れるほか一向宗門徒の反乱も仕掛けていました。北条(きたじょう)高広も北条氏の謀略で、こうしたことは戦国武将の常套手段でしたが謙信から仕掛けた形跡はありません。織田信長の求めで同盟を結びますが、信玄が亡くなり長篠の戦いで信長が勝利すると同盟は消滅します。破竹の勢いで勢力を拡大する織田信長に対し、今度は中国の毛利輝元と本願寺が謙信に同盟を呼びかけ、長く対立していた一向宗と和解。1577年には加賀(石川県)で柴田勝家を大将とする織田軍を破りました。その年春日山に戻り、年が明けた3月、城内で倒れそのまま亡くなります。享年49歳。要請を受けた関東への出陣の支度は既に整っており、毛利氏と本願寺との信長包囲網が動き出す直前のことでした。

 

謙信の死後
上杉謙信公の御墓(林泉寺)

上杉謙信公の御墓(林泉寺

 謙信が出陣したのは、長野、群馬、埼玉、栃木、茨城、神奈川、富山、石川県に及んでいました。北陸方面では獲得した城を守ったものの、関東方面では敵を追い出した城を放置して戻ってくるようなことをしていたので、亡くなってみれば謙信の領土は越後、越中、能登と上野及び信濃のそれぞれ一部でした。謙信は戦費を主に 青芋 という布を作る植物の流通から上がる税によって賄っており、京で高値で取引された青芋と越後布を運ぶため、日本海側の航路の安全が死活問題でした。北陸方面の領土をしっかり守ったのはこのためと見られています。謙信が亡くなった時、春日山城には2700両余の金があったと伝えられています。

 跡継ぎを明言しないまま急死したことによって、上杉家では二人の養子と家臣団、武田、北条、芦名氏など国外の勢力も巻き込んだ相続争いが勃発します。一人は謙信が長尾家を相続する前後にさんざん敵対した上田長尾政景の息子の 景勝 。もう一人は敵対した後同盟を結んで再び戦った北条氏康から養子にした 景虎 。先に春日山城に入って金を手にしたのは景勝でしたが、家臣と実家の北条氏、武田勝頼を味方につけた景虎が優位となります。しかし景勝は武田勝頼と結び状況を一転させます。条件は領土の割譲と太刀1腰、馬1疋、銭1000疋でした。

上杉家御廟所(米沢市)

上杉家御廟所(米沢市)

 この内乱《=御館(おたて)の乱》の間に織田勢は能登、越中を獲り、会津の芦名氏が越後に侵攻、伊達輝宗も揚北衆と結びます。跡目争いの一方であった景虎が自害した後も戦乱は収まらず、ようやく終息したのは謙信の死後9年を経ていました。北条と同盟していた武田勝頼は、態度を変えて景勝についたために北条氏を敵に回し、これが武田家滅亡の遠因になったといわれています。家督を相続した景勝は北陸方面で織田勢の猛攻に遇っていましたが、1582年織田信長が死去、その後覇権を握った豊臣秀吉の求めに応じて上洛。前田利家、徳川家康などとともに五大老の一人に列せられました。1598年には会津、米沢、佐渡を含めた120万石の大名となり越後を離れます。御館の乱という混乱の中から再スタートしたことを思えば、景勝と腹心 直江兼続 の手腕もまた神業的というべきなのかも知れません。その後徳川家康と対立し米沢30万石に国替えとなりましたが、米沢の地で上杉家は滅ぶことなく明治を迎えます。米沢では謙信を開祖として神社に奉り、今も大切に守っています。

ゆかりの地を訪ねる旅 上越市

協力:新潟県立歴史博物館

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