新潟の地域文化を紡ぎ繋げる 新潟文化物語

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file-7 鮭の子、はらこ ~村上の鮭文化~


種川の制と青砥武平治(あおとぶへいじ)

村上市内をとうとうと流れる三面川

村上市内をとうとうと流れる三面川。

 種川の制とはどんな仕組みだったのでしょうか。鮭が自分の生まれた川に産卵に戻ってくることを知っていれば、実は誰でも思いつくことです。村上藩が行ったのは、三面川の流れを分流して一つは鮭がさらに上流まで行けるように、一つは川底の砂利を整えて産卵場所を整えてやりふ化する卵を増やすことでした。こうした川の整備の確かな記録は残っていませんが、1763年に着手し1794年に完成したとされます。工事自体も大工事ではありましたが、この間さまざまな試行錯誤がなされたようです。

 これを指揮したのが村上藩士の青砥武平治でした。最終的な完成は彼の没後6年になりますが、着実に成果が現れ運上金は内藤氏入封前の額に戻って行きます。そしてさらに増え、幕末には2000両を超える大きな財源になってゆきました。

 種川の最終形は、三面川を三つに分けたものでした。一つは全く手を加えない流れ、残る二つには柵を設けて上流へ行けないようにし、手前に産卵場を整備したものです。この方式は後に庄内藩に導入され、山形県遊佐町の月光川を鮭の産地にします。幕末には蝦夷地開発に乗り出した幕府が石狩川支流を始め各地に産卵保護河川を設定しました。ちなみに、海外で鮭の人工ふ化場を整備した例は1857年のカナダが初出として知られています。村上はそれより100年近く早かったことになります。



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