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file-114 豪農の頂点、千町歩地主の栄華をたどる(前編)

  

江戸時代に千町歩を手に入れた地主


 新潟の地主の多くは、信濃川、阿賀野川、加治川などが日本海に注ぎ込む河口付近に点在していました。米作りに欠かせない豊かな水と、商品としての米を運搬する舟運(しゅううん)。その地の利を味方に、江戸時代後半、地主は新田開発を進めるとともに、周囲で手放された田畑を集積して、巨大化していったのです。

千町歩地主の誕生

大規模公共工事への取り組み

 千町歩地主の顔ぶれは、調べた年代や方法によって変わりますが、信頼性の高い大正13年(1924)の農林省調査によれば、個人で千町歩以上を所有する地主は、北海道以外には9名。そのうち新潟県では、1348町歩を有する市島家を筆頭に、伊藤家、白勢家、田巻家、斉藤家の5家が名を連ねています。なぜ、これほど新潟県に大地主が集中していたのでしょう。  

 

神田さん

「新潟県は日本一の地主王国。広い視野を持った地主を多く輩出しています」/郷土史研究家 神田さん

 郷土歴史研究家であり、北方文化博物館館長を務める神田勝郎さんは、広大な越後平野と豊かな水量の大河という、もともと米作りに適している環境に加え、土木技術の進歩と、商業で蓄えた資本投入によって、干拓や新田開発が進んだことを要因として上げます。市島家、白勢家、田巻家は江戸時代、自らの力で新田開発などの公共工事を積極的に行い、土地や農業技術の改良にも取り組み千町歩の礎を築きました。
「時代や家により経営方針は違いますが、それぞれの家訓に従って、地域を束ね、発展していったのです」と、神田さん。まず、江戸期発展型の3家について見ていきましょう。

 

新発田市の市島家と白勢家

市島邸 表門

新潟県指定文化財「表門」は、総檜材破風造りの堂々とした構え、明治40年(1907)、胴板桟葺に改装/市島邸

 市島家はもともと丹波(現・兵庫県)の出身。慶長3年(1598)、新発田藩主となった溝口家に伴って移ってきました。長く水原(現・阿賀野市)に住み、福島潟の干拓を中心に蒲原平野の開発に関わり、また、薬種問屋(やくしゅどんや)や金融業も行うなど多角経営を実践。文化文政期の終わり(1830年頃)には、1700町歩を保有していたといわれています。  

 

家伝薬方帖

薬種問屋としても栄えた市島家には、江戸時代から伝わる薬の独自の処方が残っている/市島邸 資料館

 その後、戊辰戦争で水原の邸宅が焼失したため、明治9年(1876)に現在の場所へ。8000坪の敷地に建てられた、簡素にして優雅な600坪の邸宅とそれを取り囲む回遊式の庭園は、新潟県指定重要文化財に指定され、一般公開されています。  

 

今野さん

「8代目徳次郎は、貴族院議員、第四銀行頭取を歴任。市島家の近代化に尽力した重要な当主です」/市島邸 今野さん

 市島邸職員、今野真理子さんによると、明治初期には納税額全国2位になったほどの大地主でありながら、市島家の家風は質素倹約。「『お金と努力は人のために』が家訓だからこそ、難事業の福島潟干拓に挑み続け、また、大正・昭和時代には、一族だけでなく使用人や小作人の子弟への学費援助も。そうした理念が脈々と受け継がれ、江戸から昭和に渡る長い繁栄につながったのだと思います」。  

 

 白勢家は、享保12年(1727)以来、質屋を営みながら、紫雲寺潟開発、福島潟周辺での新田開発を行って、田畑を集積。土地亀新田(現・新潟市北区)へと住居を移して順調に大地主として成長し、文政期(1818~1829年)に千町歩地主となりました。
 その財力により、藩からは藩米を担保とした融資の依頼も多く受けていたようです。やがて藩からの返済が滞り始めると、白勢家では「御用金(幕府への上納金)は引き受けない、家内で武家の風俗を真似てはいけない、質素をこころがけよう」という家内規定を作り、対抗しようとしました。
 江戸時代に手に入れた千町歩を昭和まで保ち続けた白勢家ですが、昭和21年(1946)の農地開放によって全小作地を手放します。加治川(現・新発田市)にあった壮麗な邸宅は分割譲渡され、今は残っていません。  

 

田上町の田巻家

椿寿荘 建物外観

ツツジやモミジが季節の彩りを添える枯山水の庭。建物には木曽檜や会津の欅がふんだんに使われている/椿寿荘

椿寿荘 透かし彫り

京都本願寺に用いられた技法を、彫刻師・岩倉知正が忠実に再現。芸術品のような透かし彫りの欄間/椿寿荘

 田上町指定文化財、椿寿荘(ちんじゅそう)は、新緑や紅葉のシーズンには県内外から多くの人々を引き寄せます。140坪の建物には、日本三大名人とうたわれた宮大工・松井角平の技が、880坪の庭には、京都の庭師・広瀬万次郎の美意識が込められた、贅沢な邸宅です。千町歩地主の田巻家7代目当主が大正3年(1914)に離れ座敷として建築を開始。その目的は、人助けでした。
 田上で地主として土地の集積を進めていた田巻家は、江戸時代末期に約1300町歩を有し、名字帯刀が許され、士分にも取り立てられていました。  

 

樋浦さん

「椿寿荘の60%は、ヒノキ造りで釘を一本も用いない寺院様式で建てられています」/椿寿荘 樋浦さん

 そして、大正時代、不況で仕事がなく困っていた小作人に雇用を作りだそうと、離れ座敷建築を思い立ちます。椿寿荘館長の樋浦貞吉さんによると、「仕事を創り出すことが目的の救済事業だから、何年かかっても、どんなに費用がかかってもよいと、材料は全国から銘木、銘石を集め、建築は名人に依頼。1日におよそ300人の小作人が3年半働き続け、大正7年(1918)に完成しました」。そこには、「人をつくることが自分の務め」と考える大地主としての責任とプライドがありました。
 農地解放後、椿寿荘は国有地化された後、昭和61年(1986)に田上町が買い取り、今は一般に開放しています。ここには、大正建築の極みと千町歩地主の心意気を感じることができます。  

 

 後半では、明治時代に成長した千町歩地主の館を巡ります。  

 

■ 取材協力
神田勝郎さん/一般財団法人 北方文化博物館 館長
今野真理子さん/市島邸 職員
樋浦貞吉さん/椿寿荘 館長

■ 資料
「加治川村誌」加治川村誌編さん委員会/昭和61年1月発行

 

後編 → 豪農の頂点、千町歩地主の栄華をたどる(後編)
『明治時代に巨大化した地主』

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