file-12 和釘から世界へ

「磨き屋」で後継者ができた

三条市の(有)小林研磨工業。スパナなどの工具、工業部品の鍛造品の仕上げなどを生業としていた「磨き屋」だ。後継者不足が深刻な地域産業のなか、社長の小林鉄次さん(61)の元へ、息子の肇さん(32)が帰って来た。「一代限り」(鉄次さん)と思っていたところへの、思わぬ誤算。「磨き屋シンジケート」メンバーの企業では、近頃そんな事態が少なくない。

要望があれば出張研磨もするという小林さん親子。父の鉄次さんは、シンジケートのメンバーで磨いた自動車が国立科学博物館に展示され、招待されて博物館を案内してもらったことが忘れられないという。

—もともとは、どんなお仕事をしておられたのですか?
(鉄次さん)
 スパナのバリなどから始めました。燕は洋食器生産の下請けで磨きの需要がありますが、三条は伝統的に工具の生産が多い。三条の研磨は鍛造で作った工具の仕上げが多かったですね。洋食器の仕上げは感覚的な部分が大きいけれど、工具にはJIS規格があるので、私たちは規格通りのサイズに仕上げることを得意としています。どちらかといえば、ということですけれど。

—今の主なお仕事は?
(鉄次さん)
 いろいろです。大学の研究室からの注文や、金属を使ったアートの磨き、原子炉部品も磨きましたし、アメリカのメーカーの器具も磨いています。

—磨き屋シンジケートの創設からのメンバーということですが、目的は何だったのですか?
(鉄次さん)
 受注の先細りです。県央ではメーカーが製品の全工程を自社で作っているのではなく、工具なら鍛造、金型づくり、塗装など工程ごとにいろいろな会社に運ばれて完成します。以前は地元で各工程を経て造られていたものが、海外で製造されて県央のメーカーから出荷される流れに変わり、地元に仕事が回らなくなった。きっかけは確か勉強会で呼んだ講師の方に「営業力、アピール力が足りない」と言われたことだったと記憶しています。県央だけでは仕事がないのなら、県央以外で仕事を探そうと、そういうことでした。

—肇さんはいつか父親の後を継ごうと思っていらっしゃいましたか?
(肇さん)
 全くなかったです。親父もそんなことは一度も言わなかったし、そもそも家で仕事の話をしない人でした。
(鉄次さん)
 いまだかつて研磨で儲かった人はいないんです。研磨は低所得。息子に迷惑をかけない範囲で仕事をしよう、自分は自分、せがれはせがれと割り切っていました。

 
出張研磨となった原子炉部品の研磨見本。左から作業が始まり、規定のサイズにきっちり合うように曲面を出してゆく。「きれいに磨くのは燕が得意、サイズ通りに磨くのは三条が得意。そういうのは今もあるなぁ」と鉄次さん。  

—それでなぜ戻られたんですか?
(肇さん)
 友人が「お前の家の仕事がテレビで紹介されてたぞ」とか「これ磨けるか?」と話題を振ってくるんです。磨いてほしいと相談されるたびに親父に電話して聞くでしょう。そのうちに興味が湧いて、仕事を辞めたときに何をしようと考えたらこれでした。子どもの頃全く関心がなかったので、群馬県で金属加工の研修を受けて、そのまま群馬の企業で3年働いて、それで戻ってきました。



—戻ってみていかがですか?

(肇さん)
 やりがいがあります。若い頃は仕事は金のためと割り切っていて、以前の仕事に収入面では満足していたんです。それが戻って最初に言い渡されたのは給料18万円。「ふざけんじゃねえ」と内心思いました。
(鉄次さん)
 経験なしの職人としてはそれで上々だろう?
(肇さん)
 まあ、それでも我慢して働いてみたんです。そしたら面白い。仕事は金だけじゃないです!以前の仕事は宇都宮でやっていたんですが、その頃の親友はなぜか自営業が多かった。それで仲間によく「お前、いつまで会社員やってる気だ?」「早く帰って継げ」と言われていたんです。そのたびに余計なお世話だと思っていたんですが、今は感謝しています。

—磨き屋シンジケートの活動が始まって肇さんが戻られたわけですが、身の回りに他にも変化はありますか?
(鉄次さん)
 視野が広がりました。県央では伝統的な地場産業の歴史があって、研磨は「下請けさん」。事務所で椅子に座ったりせず、外で立ち話をして仕事を済ますんです。それが一歩県外に出ると技術者として扱われ、社長室に通される。これはとても大きな違い。そうやっていろいろな人と会い、話を伺うことができました。研磨はいろいろな業種で必要とされる技術だから、話す相手もいろんな業界の人です。「世の中はこうやって動いているんだなぁ」と思わされることも多かった。それから息子が帰ってきたのは、帰ってきてほしいと思いもしなかったけど、研磨がちゃんとした技術だと認められたということだと思って喜んでいます。

—今後はどんな展望を抱いておられますか?
(鉄次さん)
 仕事の受注以上に今大事なのは秘密保持の意識をちゃんと持つこと。ノウハウの流失を防ぐこと。前は誰でも訪ねてくれば工場を見せたし、事務所から筒抜けで見える会社もある。同じように地場産業が盛んで、こっちと違って大企業とつきあいの多かった東京の大田区は、作業場は二階に置いて鍵を掛けているんですよ。自分たちの技術を盗まれないようにするためと、扱っているのがメーカーの最新の部品だからライバル社に知れちゃ取引先に大損害を与えることもある。取引先を外に求めるとそういうことも起こるんだと自覚を持たないといけない。
(肇さん)
 「磨き屋」が有名になって、海外からの問い合わせも多いんです。仕事の打ち合わせで訪ねて来ると工場も見ますよね。以前韓国の洋食器メーカーが来たんですが、その通訳の人に耳打ちされたんです。「気をつけて下さいね。実は(担当者は)日本語ペラペラですから」と。日本語が分からない振りをするために通訳を付けているんです。それでこちらの会話を全部聞き取ってゆく。発注の振りをして技術を盗みに来るということもあるんです。ある程度盗まれるのは仕方ないと割り切るしかないですけど、そういう仕事をしているんだという自覚は必要です。

 
磨き屋シンジケートで丸ごと一台研磨したピカピカの軽自動車。国立科学博物館で昨年開かれたMONODZUKURI展に出品され、現在は県央リサーチコアで展示されています。   磨き屋シンジケートオリジナルのビアマグカップ。鏡面仕上げだった従来のカップに対してタフな使用に向くバレル仕上。モバイル機器の表面加工に使われている研磨技術です。表面腐食によるグラフィック入り。価格は14,800円。HPのみで販売。

 


磨き屋シンジケートとは

 2003年、燕市商工会議所と地場で金属研磨を生業とする企業によって立ち上がった共同受注組織。相談窓口を一本化することで、零細企業の多い地場の企業が大口の発注に共同で応じることができ、なおかつ対外的な情報発信力を強化した。この取り組みがテレビ番組で紹介されたり、表面を研磨して鏡面のように仕上げた自動車が国立科学博物館に展示されたりと話題を集め、2007年には安倍首相(当時)が視察に訪れた。現在は国内外から寄せられる受注に応じる一方、「県央発」のオリジナル商品を発売。泡立ちがまろやかなステンレス製ビアマグカップは2年待ちという大人気商品になっている。参加企業は賛助企業も含めると42社。県央地域の企業が中心だが、県外の企業も参加している。

▶(有)小林研磨工業ホームページ

▶磨き屋シンジケートホームページ

江戸時代から今も続く和釘づくり

県央の地場産業の歴史


コークスで鉄の棒を熱する。金槌で何度か叩くといつの間にか釘になっている。「一日やれば200か300本は作れるね。力仕事だから続けられないけど」という。

 県央地域で金属加工が地場産業に育った、そのルーツは江戸時代から始まった釘の生産だったといわれています。信濃川とその支流が毎年のように氾濫し、農民が困窮するのを見かねた代官所が、寛永2(1625)年に江戸から釘づくりの鍛冶を招いて釘づくりを奨励したのが始まり。当時材料となる鉄がどこからやって来ていたかは定かではありませんが、その多くは出雲(島根県)産だったようです。室町時代の鋳物製造遺跡が三条市で見つかっていることから、鉄は県央地域のどこかで産出されたものも使われていたとみられています。

 その後河川網を活かして三条商人が金物の商いを始めると、県央地域の金物は全国で知られるようになり分業化と産業集積ができあがります。戦後になると燕市の洋食器がアメリカやヨーロッパへの輸出で大きく発展しました。そのほとんどが家族経営の零細企業であったため、「日本一社長が多い町」として広く知られました。

 しかし、1971年のニクソンショックでドルが変動相場へ移行したことにより円安による割安感が減少し、輸出に依存していた地場産業は大打撃を受けます。その後は価格の安いアジア製品に押され、アジアでほとんどの工程を終えて最終製品に近いかたちで輸入、そして地場産品として販売されるスタイルが確立されます。

 現在企業数は減少していますが、その一方で新素材であるチタンやアルミニウム、マグネシウムの加工に活路を見いだしたり、アジア地域の追随を許さない技術やデザインを持つ個性的な企業も現れています。米アップル社の製品の仕上げや、携帯電話などの研磨のほか、作業工具類は東南アジア地域へ多く輸出されています。

 そして地場産業のルーツであった和釘の生産も、今なお続いています。20年ごとに社殿を造り替える三重県の伊勢神宮で使われる釘を作っているのです。平成5年の式年遷宮に際して生産者が共同で生産にあたり、次回平成25年の式年遷宮でも注文を受けています。
 

 

先を平たく伸ばしてから丸める釘は、叩けば鉄が延びて木材に埋まる。見えないように打つ釘だ。逆に鋲のように見せるための仕上げもある。「細かい工夫は手仕事だからこそ生まれてきたものなんだ」と小林さん。細長い四角錐で、角があるため抵抗が強く抜けにくい一方、錐形なので引っぱればすぐに抜けるのが和釘の特徴。リサイクルにも適している。

鍛冶屋の小林さん

 「モノづくりの職人から『ここをちょっと変えてくれ』とか『こういう風にできないか』と言われて鍛冶屋が職人の使う道具を作るうちに、本当に便利なものに名前が付いて道具として残ってきたんだと私は思うよ。何でも手で作っていたからそういうことができたんだね」と話す小林由夫さん(70)。中学を卒業すると家を継いで鍛冶屋になったので、そのキャリアは半世紀を超えた。

 今は大量生産に向かない道具類を打つことが多い。全国的に鍛冶職人が減って、困り果てた人から相談が寄せられることもある。自然といろいろなものを打つようになった。「若いうちは一種類だけ作って暮らしが成り立った。周囲が廃業して、頼まれていろいろなものを作るようになった今の方が仕事は楽しいね」と笑う。

 跡継ぎはなく自分の代で廃業と決めているが、身体が動くうちは作り続けたいという。「職人がいなくなって困ってうちに相談へ来たように、お客さんがまた慌てて職人を捜すと思うとかわいそうだから」と小林さん。伊勢神宮で使う釘も「注文がある限り『できない』とは(三条工業会は)言いたくないだろうね。今は後継者育成に力を入れている。伊勢神宮の釘だけでは仕事にはならないけど、そこはまあ…」と言う。小林さん自身も「できない」と口にしたくはないのだ。


▶三条工業会ホームページ

県央の地場産業を知る・体験する

▶磨き屋一番館
技術者の育成のための研修施設。金属研磨の体験学習もできます。

▶三条鍛冶道場
和釘づくり、包丁とぎ体験を始め、数日間かけて自作するナイフづくり講座は全国から応募がある人気講座になっています。

▶県央メッセピア
県央地域の地場産品の展示即売場があります。展示品はプロ仕様の包丁やはさみ、洋食器や木工品にキッチン用品など多岐にわたります。県央地場産業の集積の広さと深さを感じることができます。

▶ネットミュージアム燕市産業資料館
燕の金属加工の歴史がビジュアルで分かるサイトです。

▶ストックバスターズ
県央地域の100社以上のメーカーの製品が格安で買えるアウトレットショップです。

 

前の記事
一覧へ戻る
次の記事