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file-134 “ビールの父”中川清兵衛と“日本のワインぶどうの父”川上善兵衛(前編)

  

与板藩の豪商「丸津」、その跡継は日本を飛び出した


 265年続いた江戸時代。鎖国政策を敷いた国内では政治、商業、文化などあらゆるものが独自に発達しました。それが開国によって、なだれ込むように入ってきた西洋の文明。脅威と憧れが混在する時代を背景に、中川清兵衛も「自分に何ができるのか」と模索します。

“ビールの父”が歩んだ波瀾万丈の人生

17歳の青春時代に命をかけて渡英

 大人になった皆さんは17歳の頃、何を考えていましたか。それより若い人ならば、どんな未来を想像するでしょう。

 

中川清兵衛

日本に戻り北海道でビールを醸造していた頃の中川清兵衛/サッポロビール株式会社提供

 江戸末期の嘉永元年(1848)、与板藩(現長岡市)に生まれた中川清兵衛は、16歳で家を飛び出し横浜へ行ってしまいます。勉強熱心で、秀才の誉れが高い少年が何を思っていたのでしょう。さらにいえば、豪商の跡取りで、周囲もうらやむ暮らしぶり。しかし与板を出たきり、二度と故郷の土を踏むことはありませんでした。清兵衛が家を出た理由は記録がないのでわかりません。以来、無謀とも思える行動を生涯に何度か起こします。その人生をたどりながら、清兵衛の心に寄り添ってみましょう。

 

日本のビールの生みの親 中川清兵衛生誕

清兵衛が育った家の跡地付近に立つ記念碑。「日本のビールの生みの親 中川清兵衛生誕碑」とある。

 与板の商人「扇屋」一族・卯平家の長男として生まれた清兵衛は、分家中川津兵衛家の跡を継ぐために養子に出されます。本家中川家は与板一帯の黒川・信濃川の舟運や回米で発展しており、分家中川家は主に太物・薬種・お茶を商い、代々の津兵衛の一字を用いて丸津を屋号としました。与板には黒川・信濃川の舟運や大名貸の回米、現代の商社のような商いで数軒の豪商がありました。最も大店であった大坂屋は、宝暦年間(1751〜1764)頃の総資産が140万両と、日本でも3指に入る豪商でした。良寛さんとの逸話も多く残る商家で、幕閣の重臣や各藩の大名、国内各地の商人と取引が有り、各地の情報が直ぐに聞こえてきました。その他の与板の豪商は、和泉屋山田家、鍋屋大橋家、割元扇谷新木家です。

 

 各豪商のおかげで文化も発展し、聞香や茶会、俳諧等が数多く開催され、地域内外の大勢の著名人が与板を訪れていました。
 江戸の後期に台頭し発展してきたのが扇屋丸津でした。清兵衛は幼い頃より厳しい後継者教育を受けます。そもそも与板藩や住民自体が教育熱心で、最後の藩主・井伊直安は明治初期に「正徳館」を開校し、身分に関係なく門戸を開き、貧しい者には昼食を与え、地域住民の知識を高め、敵味方区分無い赤十字精神を取り入れた「与板病院」も開院しました。

 

 また、インターネットやテレビもない時代、人の見聞が情報源でしたが、各藩や商人との商いのあった丸津にも各地より情報が集まりました。嘉永6年(1853)の黒船来航、翌年の日米和親条約の締結、安政7年(1860)には、与板藩主井伊家の本家・井伊直弼が暗殺された桜田門外の変が起こり、清兵衛が15歳のときには、異国船接近に対する海岸警備を幕府は与板藩に命じています。身近に迫る列強の脅威、反面、大きな魅力を放つ西洋文化。清兵衛の多感な青春時代は幕末の動乱期と重なり、丸津の跡取りという立場も相まって「自分に何ができるのか」と深く内省するようになるのです。

 

 横浜では欧州人商館で住み込みの家僕になりました。そして17歳になった慶応元年(1865)4月に英国に密航します。それは明治維新の2年前、まだ鎖国中の江戸時代で、捕まれば打ち首も免れない行動でした。命をかけて渡った英国での記録はなく、理由はわかりませんが25歳でドイツに入り、そこで運命を大きく変える人たちに出会います。

 

“時代のタイミング”に乗じてビール造りを学ぶ

濱田明さん

中川清兵衛敬慕会副会長の濱田明さん。

「何であなたが“ここ”にいる!?と池田謙斎は思ったでしょうね」と言うのは中川清兵衛敬慕会の濱田明副会長です。近隣の名家出身の両氏は互いを知っていたと思います。
 池田は中之島(現長岡市)出身の医師で、後に天皇の侍医や日本初の医学博士となる人物。“ここ”とは、当時ドイツ留学生総代だった青木周蔵と池田が招かれたドイツ人の家庭で、家僕として住み込んでいた清兵衛と出会うのです。「行方知らずの丸津の坊っちゃんがドイツにいたのですから、池田はさぞ驚いたことでしょう。先見性のある青木は清兵衛に『君はせっかく本場のドイツに来たのだから、ビールの実学を勉強するとよい』と諭し、ビール醸造を学ばせたと私は推測しています。“時代のタイミング”もありました。明治政府は国内産ビールを造ることで、日本の技術や文化レベルを世界に示そうとしたのです」

 

開拓使麦酒醸造所の開業式

工場幹部とともに撮影したビール醸造技術修業記念写真。

 青木はその後、外務省へ入省し、駐独公使、外務大臣と出世します。清兵衛の誕生が1848年、青木が44年、池田は41年で、それぞれが20代後半〜30代前半と年齢も近い。清兵衛は異国で奮闘する同世代から大きな刺激を受け、二人の先輩は、後ろ盾もなく海外に出た清兵衛を、応援しようと思ったのではないでしょうか。

 

開拓使麦酒醸造所の開業式

ビール醸造技術修業証書。「旺盛な興味と熱心さをもって、ビール醸造および製麦の研究に精励し、よくその全部門にわたり優れた知識を修得し、ヨーロッパにまで来訪した目的を達成した」と記されている。

中村登さん

中川清兵衛敬慕会事務局長の中村登さん。

 明治6年(1873)3月、青木の後押しで清兵衛はベルリンビール醸造会社フュルステンバルデ工場に入ります。醸造は未知の分野であり、たいへんな重労働、言葉の壁もあったでしょう。しかし、清兵衛はわずか2年2ヶ月で修業証書を授かります。そして、青木が書いた推薦状が通り、日本でビール醸造を始めるために帰国します。工場の建設から醸造までの技術系を任され、国家機関・北海道開拓使職員の村橋久成がビール事業の責任者となって事務系を担当しました。実は、村橋も清兵衛と同年に英国へ渡航(密航)しており、巡り合わせに運命を感じたことでしょう。夢を膨らませる二人は明治9年(1876)5月に札幌に渡り、猛スピードで開拓使麦酒醸造所を完成させて9月上旬に開業しました。中川清兵衛敬慕会の中村登事務局長は建設業を営んでいますが、「醸造所は建築のプロでも難しいのに、たった2年しか学んでいない人が設計するとは。どうして清兵衛にできたのか」と頭をかしげます。それほどの難事業をあっという間にやり遂げたのです。

 

明治時代のビール瓶

明治時代のビール瓶(レプリカ)。清兵衛が造った「札幌ラガービール」と冷製「札幌ビール」

 清兵衛がビールを造る以前にも、国内にはいくつかのビール醸造所がありました。しかし、常温で造っていたので品質が低かった。清兵衛は天候や酵母の不具合、氷の不足など、さまざまな苦難を克服しながら、“冷製『札幌ビール』”を醸造。外国人からも「最上」と高い評価を得るようになりました。
 プライベートでは、醸造所の開業年に旗本令嬢の京極鏐子(りゅうこ)と結婚。洋風な暮らしを好み、朝食はパンとコーヒーでした。穏やかな幸せが続く中、明治14年(1881)に人生最良の日を迎えます。醸造所へ明治天皇がお見えになり、清兵衛がビールを注いでお渡ししました。大変な栄誉で、天にも昇る気持ちだったでしょう。冷製『札幌ビール』のブランドも定着し、売り上げも伸びていきました。
開拓使麦酒醸造所の開業式

開拓使麦酒醸造所の開業式の写真。積み上がるビア樽には「麦とホップを製す連者(れば)ビイルとゆふ酒になる」とある。

 

 しかし、その成功は長く続きませんでした。清兵衛はわずか2年余りでビールの修業をしましたが、その1年後、ドイツで新しい醸造法が開発されたのです。簡単で、量も多く、風味もよい。習得したドイツ人技師が醸造所に招かれましたが、新製法を決して日本人には教えず、清兵衛は次第に居場所がなくなり、悔しさを抱えながら自ら札幌麦酒会社を去ります。明治24年(1891)、43歳のときでした。

 

 退職した同年、鏐子と死別していた清兵衛は広瀬愛子と再婚。小樽運河沿いに夫婦で旅館を開業し、成功を収めます。そこで海運関係者から利尻島に港がなくて困っていると聞き、私財を投じて港の整備を始めます。現代なら10億円もの巨費を掛けましたが、嵐のたびに壊れてしまい3年目に資産が尽きます。借金が膨らんで旅館も手放してしまいました。「こうと決めたら成功するまで突っ込んでいくタイプ。やはり丸津で育ったから、港を何とかしてあげたいとこだわったのでは」と濵田副会長は考えます。それからは愛子と横浜に移り、与板から育ての母を呼んで東京観光をさせています。愛情を注いでくれた母には成功した姿を見せたかったのかもしれません。晩年は娘たちの家を転々とし、最後は名古屋の長男のもとで大正5年(1916)、68歳でこの世を去りました。末期(まつご)の水は清兵衛が希望した通り、札幌ビールだったといいます。「本当は最後までビールを造りたかったのではないか」と中村事務局長は想像しています。

 

今に息づくスピリッツ〜これからの清兵衛

サッポロビール特約店看板

サッポロビール特約店看板。看板右には「宮内省御用達」と墨で添えられている。

 開拓使は、清兵衛が造った冷製『札幌ビール』の成分分析を札幌農学校の教師デビット・ペンハローに依頼しています。「苦みがほどよく、なにより芳醇な香りが心地よい」と絶賛され、これをルーツとするのが、サッポロビール株式会社で製造されている『サッポロ ラガービール』です。冷製『札幌ビール』のラベルにあった開拓使のシンボル「北極星」の★マークも受け継がれ、清兵衛が探求した“モノ造り”への思い、おいしいビールへのこだわりが息づいています。

 

清兵衛ののぼり

中川清兵衛敬慕会が普及させている清兵衛ののぼり。

 平成24年(2012)には新潟限定の麦芽100%ビール『風味爽快ニシテ』が誕生。「新潟県はビール産業の近代化に大きく貢献したパイオニアの出身地。県内外に誇れる歴史を、新潟に縁のある、新潟でしか飲めない商品として販売することで、おいしい新潟の食材や文化を広くアピールしたい。サッポロビールらしい継続的な事業活動を通じて、新潟の発展の一助となる取り組みをしたい」と、販売の背景には同社の新潟に対する感謝の気持ちがありました。商品名は、冷製『札幌ビール』の広告コピーとして清兵衛が考えた『風味爽快ニシテ、健胃ノ効アリ』から取っています。清兵衛が追い求めた風味を実現しようと、苦心の末に「しっかりとした旨味」と「爽やかなのどごし」を両立させました。

 

与板歴史民俗資料館

与板歴史民俗資料館(兼続お船ミュージアム)には清兵衛に関する資料が展示されている。

 与板でも清兵衛を世に出そうという動きが高まっています。与板町商工会が8月上旬に開催する「中川清兵衛サッポロビールフェスタ」は700人以上が集まる賑やかなイベント。令和2年(2020)で20回目を迎えます。同日に「風味 爽快ツアー」を中川清兵衛敬慕会が企画して史跡巡りも楽しみます。平成28年(2016)には「与板★中川清兵衛記念BBQビール園」もオープンし、さらに清兵衛を身近に感じるようになりました。
「それでもまだ清兵衛を知らない人が多い。与板の子どもたちが大人になってビールを飲むようになったら、地元の人だったと、そう気付くまでになってほしい」と濱田副会長は願っています。

 

 さて、清兵衛の気持ちに近づくことができたでしょうか。
 後編は、“日本のワインぶどうの父”といわれる川上善兵衛を紹介します。中川清兵衛とは名字も名前も一字違い。こちらも大地主の跡継ぎとして生まれながら、人のため、故郷のため、最終的には国のために私財を投じた人物です。

 

掲載日:2020/1/24

 

■ 取材協力
濱田 明さん/中川清兵衛敬慕会副会長
中村 登さん/中川清兵衛敬慕会事務局長
サッポロビール株式会社

 

後編 → “ビールの父”中川清兵衛と“日本のワインぶどうの父”川上善兵衛(後編)
私利を捨て、国産ワインの発展に生涯を捧ぐ

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