file16 「直江兼続の謎 その1~御館の乱の分岐点~」~謙信の後継者

謙信の後継者

越後を統一し能登と信濃の一部まで領土を拡大した上杉謙信は、織田信長との対決を控えたまま春日山城で亡くなります。
これは越後の大騒乱と他国の侵入の始まりでした。

 ― 景虎か、それとも景勝か

 

景勝の父長尾政景の居城跡

景勝の父長尾政景の居城跡
南魚沼市、旧六日町を見下ろす坂戸城は標高634メートルの頂上付近に本丸があり、魚野川に守られた天然の要害。群馬県との境界近くにあり、県内有数の豪雪地だ。

1578年3月に春日山城で倒れた謙信は、4日間昏睡(こんすい)したまま49歳で亡くなりました。死因は脳卒中でした。実子がなく、何人かの養子をとっていた謙信が後継者を指名しないまま亡くなったことで越後に衝撃が走ります。この当時の上杉家の支配地域は、現在の新潟県、富山県のほぼ全域と石川県の能登半島、長野県北部、群馬県、埼玉県の一部に及び、織田信長、武田勝頼と敵対していました。戦国時代においては、主の死は敵につけ入るすきを与え、国を滅ぼしかねない出来事です。

謙信の後継者は、他家を継いでおらず春日山に居を構えていた二人の養子に絞られていました。一人は坂戸城主長尾政景(ながおまさかげ)の息子で謙信の甥でもある景勝。もう一人は北条家から養子となった景虎。景虎は景勝の妹を妻に迎えており、両者は義理の兄弟の関係にありました。

この頃の直江兼続は、まだ当時樋口与六という名でした。景勝について春日山城に入った上田衆と呼ばれる直属の家臣団の一人で、上田荘(南魚沼市)で生まれ育ったことは確かなようですが、どのような幼少期を過ごし、春日山城でどのような役割を担ったかなどについては全く史料が残っていません。

米沢藩時代にまとめられた「上杉家御年譜」には、「御家督は景勝公御相続の旨 御病中にいよいよ御遺言なり」と書かれていますが、これは景勝が上杉家を相続したのち自らの都合の良いように解釈されたものに過ぎません。景虎の実家である北条家の記録には、景虎が後継者であったと記述されています。謙信の葬儀が終わると両者の間で家臣同士の小競り合いが始まっていることから、謙信は何ら遺言めいたものは残していなかったと考えられています。

 いずれかを謙信の後継者とみる根拠

 

景勝
・ 上杉家家中でも有力な上田長尾家の後継者で、母親が謙信の姉
・ 謙信の官名である 弾正少弼(だんじょうしょうひつ) をもらっている

景虎
・ 謙信の名であった景虎をもらっている
・ 家臣に課される軍役(戦の際に出す兵士や馬。景勝には課されていた)を課されていない

上越市史では、春日山での住まいが景虎の方が謙信の住まいに近かったこと、軍役が課されていないこと、謙信が関東で越年する際に景虎を呼び寄せたりしていたことなどから、謙信は景虎を後継者と考えていたという見方をしています。ただし、その根拠となっている現存している軍役帳が、たまたま景虎が出陣しない戦に際して作成されたものであるという見方もあり、決定的とはいいきれないのが実情です。研究者の間では、大別すると「どちらに相続させるか謙信は決めていなかった」と「景虎に相続させるつもりだった」の二つの見方に割れており、結論は出ていません。

謙信・景勝の勢力範囲
は上杉謙信晩年の勢力範囲。一時は小田原城を包囲し関東一円を勢力範囲に置いたが、
晩年は北陸方面に転じて越中、能登を支配していた。
は上洛直前の上杉景勝の勢力範囲。能登、越中は織田軍に攻略されて失った。
長野県北部は武田勝頼が徳川家康に攻められた際の争奪戦で得た領土。
県内では新発田重家が反乱を起こしていた。上洛後にようやく平定し、佐渡も支配下に置いた。

 

 

file16 「直江兼続の謎 その1~御館の乱の分岐点~」~先に動いた景勝

先に動いた景勝

いち早く春日山城を占拠した景勝、そして城下の御館に陣を敷いた景虎。戦いは府中(上越市)だけで収まらず、各地に飛び火します。

御館跡

御館跡
上越市の直江津駅近くにあり、現在は公園になっている。発掘調査では鉄砲の弾や炭化した木材などが見つかっている。この戦いで景虎の妻(=景勝の妹)が亡くなった。

 ― 実城と軍資金の占拠

 

先手を打ったのは景勝でした。謙信が亡くなった3月のうちに謙信の居城であった春日山の実城(みじょう)を占拠します。そして謙信の主だった家臣に「謙信の遺言により」と自分が正当な後継者である旨の書状を送ります。実城から館へ矢や鉄砲を撃ちかけられた景虎は、5月に入ると居館を離れて御館(おたて)に入ります。御館とは城下にある謙信が建てた前関東管領上杉憲政(ぜんかんとうかんれい・うえすぎのりまさ)の館です。その後間もなく、現在の五智公園の近くで両者の最初の衝突が起こり、御館の乱が始まりました。

景虎も手をこまねいているばかりではありませんでした。実家である北条家を通じて武田勝頼(たけだかつより)、伊達輝宗(だててるむね)に応援を頼みます。景虎についた国内の諸将も御館へ入り、甲斐の武田勝頼は従兄弟の信豊(のぶとよ)を国境に配して景虎救援の準備を整えました。

国内の諸将も景虎、景勝方双方に分かれ、府中の市街から戦火は越後全域に拡大されます。国外からは景虎側に付いた武田の軍勢と景虎の実家北条氏の軍勢がそれぞれ信濃方面、関東方面から迫り、会津の芦名(あしな)氏はどさくさにまぎれて現在の五泉市に侵攻します。織田信長は北陸の柴田勝家、前田利家、佐々成政らに能登を奪わせ、さらに越中に侵攻。越後の有力諸侯に織田方への帰属を呼びかけています。伊達輝宗は景虎側についた黒川清実(くろかわきよざね)とともに景勝側の城を占拠していました。

国内外双方入り乱れた状態の中で、均衡を破ったのは謙信の残した軍資金でした。金額は定かではありませんが 甲陽軍鑑 によると1万両ともいわれています。それを手にしたのが実城をいち早く占拠した景勝でした。

当時まだ10代だった樋口与六(直江兼続)が景勝の下でどのような働きをしていたかは分かっていません。兼続が後に一手に取り仕切るようになった、諸将との連絡や景勝への取り次ぎは、新発田忠敦(しばたただあつ)や斎藤朝信(さいとうとものぶ)らが担っていました。

file16 「直江兼続の謎 その1~御館の乱の分岐点~」~景虎の最期

景虎の最期

互いに謙信の薫陶を受け、義理の兄弟でもあった景勝と景虎の争いは、他国を巻き込んだ末に景勝の勝利で決着がつきます。が、越後全域を巻き込んだ騒乱は領土の多くを失った上に、景虎が死んでからも終わりませんでした。この騒乱の中で、直江兼続が誕生します。

 

 ― 武田勝頼との同盟

 

北条家と同盟を結んでいた武田勝頼は北条家の要請に応じて景虎に付いていましたが、景虎の勝利は武田家にとっては必ずしも望ましいものではありませんでした。武田勝頼はこの3年前に長篠の戦いで織田信長に敗れ、織田・徳川連合に脅かされていました。越後が景虎のものになれば北条家との均衡も破れ、孤立する恐れがあったからです。

ここへ、景勝から講和の申し入れが入ります。謙信の死後3ヶ月が経った頃でした。勝頼と景勝の講和は成立し、金五百両と上野(群馬県)の一部が勝頼に贈られ、勝頼の妹が景勝の妻となりました。これによって、それまで優勢だった景虎側は一気に苦況に陥ります。頼みの綱である北条家の援軍が来ず、勝頼の勧めに応じて和議を受け入れました。しかし、それはほんの一時のことで再び戦闘が再開されます。

状況を打開すべく景虎は、前関東管領上杉憲政と自身の息子である道満丸(どうまんまる)を春日山に送り、講和を図ります。しかし景勝側は憲政と、景勝にとって甥である道満丸を殺してしまいました。そして御館は攻め滅ぼされ、景虎は再起を懸けて関東を目指します。その道中の鮫ヶ尾城で景勝の追撃に遭い、自害して果てました。謙信の死からちょうど一年が経っていました。

謙信の跡目争いから始まった騒乱は、一方の当事者が亡くなっても収まりませんでした。親北条と反北条、以前から続いていた魚沼郡と古志郡の諸将の対立という構図が含まれていたためです。景勝は国内の戦乱を抑えると同時に、織田信長を始めとした国外の勢力とも戦わなくてはなりませんでした。

 

直江屋敷跡

直江屋敷跡
春日山城の中にあった直江屋敷跡。与板城主になって以降も兼続は景勝を補佐して春日山におり、上洛後は伏見と行き来する日々だった。

 

与板城跡

与板城跡
与板(現在は長岡市)は、信濃川にほど近い舟運の要衝で直江家が治めていた土地。兼続直属の部下は「与板衆」と呼ばれ、上杉家運営の重要なポストについて兼続を助けた。

 ― 直江兼続誕生

 

樋口与六の名がようやく文献に登場するのは、乱の勃発から2年を経た頃のことです。景勝から舟の税を免除された文書で初めて名が確認されており、御館の乱の戦後処理で何らかの手柄を立てていたことをうかがわせます。与六はこの時、20歳でした。

上杉家内で大きな権力を持つきっかけとなった直江家相続は、御館の乱が間接的なきっかけになっています。上杉家内の論功行賞に不満を持った毛利秀広(もうりひでひろ)に直江家当主であった直江信綱(なおえのぶつな)が殺されてしまったからです。与六は景勝の命により未亡人となったお船(せん)の方の婿になり、直江家を相続します。兼続はここから、上杉家内で権力を掌握してゆくのです。上杉家の力を大きくそぐ結果となった御館の乱ですが、これが起こらなければ後世に名を残す直江兼続は生まれなかったかも知れません。

兼続は、それまで毛利秀広が担っていた外交の取り次ぎ役を任せられます。取り次ぎ役とは諸外国からの外交文書や内政の諸事を景勝に伝え、その指示を返す役のことです。ですから取り次ぎ役は景勝との窓口として絶大な権力を持つことができます。当時はもうひとりの取り次ぎ役である狩野秀治とふたりで政務に当たっていましたが、天正12(1584)年ごろに秀治が亡くなると、景勝は後継の取り次ぎ役を立てることはありませんでした。兼続は上杉家唯一の取り次ぎ役として、事実上執政の立場となり上杉家を舵取りしてゆくことになるのです。

協 力:新潟県立歴史博物館
写真協力:上越市

その2に続く…

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リンク

直江兼続と上杉景勝に関するリンク集です。
ゆかりの地巡りやもっと深く知りたい時にお役立て下さい。

▶ 新潟県立歴史博物館
2009年1月まで、連続15回の「天地人リレー講演会」を県内各地で開催しています。


上越市観光ネット

上杉家の居城春日山城のあった上越市のゆかりの地、企画展などの情報。


長岡市

直江兼続の妻、おせんの方のふるさと与板の情報です。

▶ 直江兼続やまがた情報局
米沢藩の礎を築いた直江兼続。そのゆかりの地巡りやペーパークラフトのダウンロード。


NHK

大河ドラマ天地人情報。

 

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