
file16 「直江兼続の謎 その1~御館の乱の分岐点~」~先に動いた景勝

いち早く春日山城を占拠した景勝、そして城下の御館に陣を敷いた景虎。戦いは府中(上越市)だけで収まらず、各地に飛び火します。

御館跡
上越市の直江津駅近くにあり、現在は公園になっている。発掘調査では鉄砲の弾や炭化した木材などが見つかっている。この戦いで景虎の妻(=景勝の妹)が亡くなった。
― 実城と軍資金の占拠
先手を打ったのは景勝でした。謙信が亡くなった3月のうちに謙信の居城であった春日山の実城(みじょう)を占拠します。そして謙信の主だった家臣に「謙信の遺言により」と自分が正当な後継者である旨の書状を送ります。実城から館へ矢や鉄砲を撃ちかけられた景虎は、5月に入ると居館を離れて御館(おたて)に入ります。御館とは城下にある謙信が建てた前関東管領上杉憲政(ぜんかんとうかんれい・うえすぎのりまさ)の館です。その後間もなく、現在の五智公園の近くで両者の最初の衝突が起こり、御館の乱が始まりました。
景虎も手をこまねいているばかりではありませんでした。実家である北条家を通じて武田勝頼(たけだかつより)、伊達輝宗(だててるむね)に応援を頼みます。景虎についた国内の諸将も御館へ入り、甲斐の武田勝頼は従兄弟の信豊(のぶとよ)を国境に配して景虎救援の準備を整えました。
国内の諸将も景虎、景勝方双方に分かれ、府中の市街から戦火は越後全域に拡大されます。国外からは景虎側に付いた武田の軍勢と景虎の実家北条氏の軍勢がそれぞれ信濃方面、関東方面から迫り、会津の芦名(あしな)氏はどさくさにまぎれて現在の五泉市に侵攻します。織田信長は北陸の柴田勝家、前田利家、佐々成政らに能登を奪わせ、さらに越中に侵攻。越後の有力諸侯に織田方への帰属を呼びかけています。伊達輝宗は景虎側についた黒川清実(くろかわきよざね)とともに景勝側の城を占拠していました。
国内外双方入り乱れた状態の中で、均衡を破ったのは謙信の残した軍資金でした。金額は定かではありませんが甲陽軍鑑によると1万両ともいわれています。それを手にしたのが実城をいち早く占拠した景勝でした。
当時まだ10代だった樋口与六(直江兼続)が景勝の下でどのような働きをしていたかは分かっていません。兼続が後に一手に取り仕切るようになった、諸将との連絡や景勝への取り次ぎは、新発田忠敦(しばたただあつ)や斎藤朝信(さいとうとものぶ)らが担っていました。