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file-17 直江兼続の謎 その2 ~上杉家の関ヶ原~ 謎その1.会津の防備強化は何のためか


~上杉家の関ヶ原~ 謎その1.会津の防備強化は何のためか


 会津に入った景勝主従は国内の整備に精力を注ぎます。それが豊臣秀吉亡き後、徳川家康に戦支度と疑われ会津征伐につながります。
 

 ― 幻の城は広島城クラス


 五大老の一人であった上杉景勝は、豊臣秀吉亡き後の混沌をよそに本国(会津)に戻りました。移封後間もなく秀吉の死によって上洛し、国の政務が滞っているというのがその理由です。この時はまだ徳川家と良好な関係を保っていました。

 前任蒲生氏郷が作り上げた黒川城(現在の若松城の位置)と城下が手狭であるとして、慶長5(1600)年、神指城(こうざしじょう)の築城を開始します。総指揮には兼続が当たりました。その規模は180×220メートル(本丸)で、現在の若松城のおよそ2倍。広島城に匹敵する規模でした。

 ところがこの築城と、道路の普請、新しい家臣の召し抱えなどが家康の疑念を招きます。家康と戦う意図がないならば上洛して申し開きをせよという手紙を幾度か受け取った末に、直江兼続が出した返事が有名な直江状でした。これによって家康は上杉討伐を決めたとされています。

 越後時代から大幅な加増で全国4位の大大名になったわけですから、それに見合う規模の城と城下、そして家臣が必要であり、単にそのためだけであったという見方もできます。神指城の築城は、大坂城と西の要となる広島城と並び、東北の要とする豊臣秀吉の意図したものであるともいわれています。

 ただし、この時は既に五大老の一人である前田利長が、挙兵を疑われて母親を人質に出し、家康に屈服させられています。理屈からすれば景勝も家康も同じ五大老の一人ではありましたが、家康の勢いは絶大で、それが通じないことは誰の目からも明らかでした。

 また、神指城の普請が謙信の大法要の直後に始まっていることから、何らかの意図、覚悟が既にあったのではないかとみる根拠の一つになっています。各地で城を治めていた諸将が一堂に集まったこの機会に、何らかの意志決定がなされた可能性があるからです。




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