新潟の地域文化を紡ぎ繋げる 新潟文化物語

文化の丁字路~西と東が出会う新潟~

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file-35 北前船が運んだもの ~新潟からの移出入



新潟からの移出入
 

   

 新潟県の主な港は、北から岩船、新潟、出雲崎、柏崎、今町(現在の上越市)。佐渡は小木。そのうち最も取り扱いが多かったのは新潟湊(にいがたみなと)です。信濃川、阿賀野川の舟運と直結していることにより、魚沼、長岡、越後平野全域と会津藩、米沢藩も新潟湊を利用していたからです。

新潟湊絵図
安政6(1859)年、日米修好通商条約に基づき開港した5港の一つに指定された新潟湊。日本海側としては唯一の港でした。


旧新潟税関庁舎

「旧新潟税関庁舎」
昔の新潟湊の雰囲気を伝える旧新潟税関の建物。水辺は市民に憩いの場にもなっています。(写真提供:新潟観光コンベンション協会)


湊稲荷神社

「湊稲荷神社」
古くから海運業者や漁業者、本町十四番町にあった新潟遊郭で働く女性達の信仰を集めた稲荷神社。女性たちは、愛しい人が船で出て行ってしまうことをおそれ、荒天を祈願したという話もあります。(写真提供:新潟観光コンベンション協会)

 積み荷はほとんどが米でした。諸藩は徴収した年貢米の一部を売って現金化するのに、大坂などできるだけ高い値段で売れる土地で米を売りさばこうとします。米は白山、沼垂、関屋などに建てられた各藩の蔵に保管され、販売は藩が直接行うのではなく「蔵宿(くらやど)」と呼ばれる商人に委託されていました。米の輸送で新潟湊が栄えた元禄時代には、諸藩の蔵が新潟町内に69棟あり、港から出された年貢米が34万4000俵(元禄10年)でした。年貢米とは別に、農村から商人が集めた米が、諸藩の年貢米の総数よりも多い36万5000俵(同年)。合計すると1年間で80万俵の米が新潟から船で運ばれました。

 当時新潟湊に入ってきた船は40か国から年間3500艘あまり。年間といっても冬場は海が荒れ、どの船も港に入って春を待ちますから、一日平均で150艘近くが入ってきていたことになります。

 米の他に新潟から出て行ったものは、農村で作られる雑穀、大豆類。新潟湊は江戸時代を通して主に米を積み出してきましたが、佐渡の小木はなまこなどの海産物(中国への輸出品として長崎へ)のほか、稲作ができないため藁のない北海道向けの藁製品や竹などを出していました。

 諸国の産物も新潟に入ってきました。西からは木綿や塩。木綿は当時西日本で盛んに栽培され、江戸時代に一気に広まったものです。そして塩は、今でも「赤穂(あこう)の塩」が有名ですが、これが北前船で全国に安く流通するようになり、各地にあった塩田が大きな打撃を受けたといわれています。越後国内では各地に塩田があり、塩は豊富に採れましたが、新潟湊に入った塩の多くは米沢や会津に運ばれました。また、三条の金物の原料には出雲からの鉄が使われています。東北、北海道からは紅や材木が入ってきました。

 越後国内に陸揚げされた量を別とすると、日本海を航行した船が積んでいた荷物は、米、鰊(にしん)、昆布が主なものでした。松前藩の開発が進むと、盛んな鰊漁によって、主に西国に運ばれます。西国では木綿栽培などの肥料として鰊を使っていました。昆布も北海道の産物で、これは中国への輸出品として長崎に集まります。

 幕末近くになって新潟で抜け荷(密貿易)事件が摘発されました。抜け荷の調査摘発に当たったのは、初代新潟奉行の川村修就(かわむらながたか)ですが、彼は非常に高価であるはずの珊瑚(さんご)や、朱塗りの原料が新潟では安い値段で流通していたと記録を残しています。密貿易を行っていたのは薩摩(さつま)藩。当時藩領だった琉球(現在の沖縄県)を経由して中国から珊瑚や朱、薬種を買い付け、新潟をはじめとする北陸地方各地で売りさばき、北海道の昆布や海産物を沖縄や中国に輸出していました。沖縄までの昆布の輸送を請け負っていたのは、富山の薬売りでした。富山県は現在昆布の消費量全国一、沖縄も昆布消費が盛んです。抜け荷事件は江戸時代の商品経済と新潟の豊かさ、北海道の昆布が北前船に果たした役割を物語っています。

 
 
 

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