file-39 日本スキー発祥100周年 ~スキーの夜明けからスキー旅行のはじまりへ

  

スキーの夜明けからスキー旅行のはじまりへ

高田の金谷山から広がっていったスキー

明治45(1912)年、高田で行われた日本初のスキー競技会の視察に訪れた乃木大将。

明治45(1912)年、高田で行われた日本初のスキー競技会の視察に訪れた乃木大将。

灰塚山でスキーを装着した高田郵便局集配人たち

灰塚山でスキーを装着した高田郵便局集配人たち。雪に閉ざされた山間部への集配や積雪時の電信・電話線の巡視時にも利用したという。

 明治44(1911)年1月12日、上越市高田の歩兵第58連隊の営庭で生まれた日本のスキー文化。その後すぐに高田スキー倶楽部が発足、全国的にスキーを普及させるための取り組みが始まった。

 翌明治45年(1912)年、高田で開催されたスキー競技会を訪れた乃木希典大将が、「こんな便利なものが何故今頃まで入ってこなかったのか。」と、当時上越市に駐留していた第13師団長の長岡外史中将にスキー普及活動を託した。この言葉を残した翌日に、乃木大将は殉死。長岡中将は乃木大将の遺志を継ぎ、さらにスキー普及に力をそそいだ。

 まず、スキー活用に一番積極的だったのは高田郵便局。冬期、雪深い山奥にまで郵便を届けに行かなければならない郵便局員にとっては何よりの用具。これをきっかけにして県内各地の郵便局へ、そして郵便局員を目にした一般人にも広くスキーが浸透していった。生活に密着していたからこそ築かれた「スキー王国にいがた」の礎である。

 →スキー伝来の詳細は、「新潟文化物語」
 特集File.20「スキー王国にいがた」でどうぞ。
 

人を惹きつけてきた妙高高原、スキー旅行という文化

越後富士と称される妙高山

有>越後富士と称される妙高山。文人たちのみならず、レルヒ少佐をも魅了した。

リリエンフェルト・スキーを教えるレルヒ少佐

1本杖のリリエンフェルト・スキーを教えるレルヒ少佐(右から3番目)と学習院大学生一行。学習院大学生は日本で最初の学生スキーヤーであり、草分け的存在でもあった。

昭和30年代・関温泉スキー場

昭和30年代に関温泉スキー場にかけられたリフト。

 スキー発祥の地・高田に隣接した妙高高原は、明治の頃より、芸術の題材となる景勝地として、多くの文人・芸術家たちを惹きつけてきた。明治32(1899)年、尾崎紅葉が妙高を訪れ、紀行文「煙霞療養」にて妙高を紹介する。そこで「天下一」と称された赤倉は全国的に知られるところに。岡倉天心、与謝野晶子、与謝野鉄幹、有島武郎、田山花袋、徳富蘆花らも赤倉を訪れ、歌を残している。

 名だたる文人を惹きつけてきた妙高に、スキー旅行という文化が加わったのは大正時代。レルヒ少佐自身、スキー登山のため、妙高山を訪れている。少佐からスキーを教わった高橋翠郊(すいこう)や中江徳三郎は、妙高にある燕温泉を拠点に、山スキーを楽しむようになった。

 大正時代の終わりには、赤倉温泉に、高松宮殿下、秩父宮殿下などの皇族がスキーに訪れたこともあり、妙高高原は、夏場の避暑地としてだけではなく、冬のリゾート地としても有名になり、スキーや温泉を楽しむ人々でにぎわいを見せるようになった。

 その賑わいの中に学生スキーヤーの姿が増えたのは、昭和の初め頃。これは、高田第13師団団長の長岡外史の影響が大きいと言われている。当時の旅団長や師団長の師弟が学習院大学に進学した結果、スキー人口が大学内で増加し、多くの学習院大学生スキーヤーが燕温泉にやって来るようになったのだ。

 講談社出版の「昭和二万日の全記録」の全国著名スキー場番付では、上位に妙高山近辺のスキー場が見られ、昭和初期当時から妙高界隈は全国的なスキー場として有名だったことがうかがえる。昭和12(1937)年、当時の日本政府の外貨獲得政策として国際リゾートホテル建設が推進され、その一つとして選ばれたのも妙高の地。そして建設されたのが赤倉観光ホテル。以降、妙高は国内のみならず、海外からの賓客のスキー旅行の目的地となってきたのである。

 1950年に日本第一号公認リフトがかけられたのも実はこの赤倉。妙高は、スキーブームをけん引し、流行の最先端を走ってきた。美しい景観と文化的な雰囲気で、国内外のスキー客を惹きつけてきた妙高は、外に向けられた新潟への入口としての役割を果たしてきたと言えるだろう。

file-39 日本スキー発祥100周年 スキーがもたらしたもの~つながりと交流と

 

スキーがもたらしたもの~つながりと交流と

スキーブーム到来、身近になった新潟

昭和30年代のスキーウェア

太めのズボンにセーターが定番だった昭和30年代。

昭和40年代のスキーウェア

細めのスキーパンツが主流の昭和40年代。若者たちが雪山へ繰り出した。

昭和40年代・スキー客で賑わう駅のホーム

駅のホームで列車を待つ、スキー交流団の小学生。(昭和40年代)

 昭和30~40年代、日本に空前のスキーブームがやってくる。イタリアで開かれた冬季オリンピックで、猪谷千春が日本人で初の銀メダルを獲得したのが昭和31年(1956)年。同オリンピックでアルペン三冠王を獲得して世界を驚かせたトニー・ザイラー主演のスキー映画が日本で公開されたのが昭和34(1959)年。さらに、当時若者の間で大人気だった加山雄三がスキーで活躍する映画「アルプスの若大将」が封切られたのが昭和41(1966)年。

 雪山を颯爽と滑る彼らのスキーテクニックに、そしてそのスマートなファッションに、日本のスキーファンは夢中になり、憧れ、さらに多くの人が雪山に向かうようになった。鉄道で首都圏と結ばれていた新潟には、沿線に多くのスキー場が存在していたこともあり、多くのスキー客がやってきた。大学生のグループ旅行で、家族のレジャーとして、少年スポーツ団交流や修学旅行などで、とスキー旅行文化の裾野が広がった時期である。

 昭和48(1973)年には、日本初のスキーワールドカップが苗場スキー場で開催され、「スキーと言えば新潟」のイメージが定着していく。スキーで新潟にやってきた彼らは、宿で温泉で街で雪国の暮らしや生活文化や郷土料理などに触れ、地元の人の人情に触れていく。その結果、新潟を身近なものに感じ、馴染みの場所を作って繰り返し訪れる人も増えてきた。「スキーと言えば新潟」というイメージが広がっていく背景には、そんな土地や人の温かさがあったに違いない。

 地元の人たちにとっても、スキー旅行文化の裾野拡大で身近なものになった県外の人との交流や県外でのスキーブームは、改めて「雪を楽しむ」という視点を見直し、地元にあるよい部分を再認識する機会ともなった。子供たちは自分も憧れのスキーヤーのように滑りたい、とスキーに熱中し、若者たちもスキーファッションを決めて雪山に繰り出していったのだ。

 

 

 

新潟の雪山から世界へ、世界から新潟へつながる人々

雪山は子供たちの遊び場。スキー靴をはいて雪合戦。(昭和30年代)

雪山は子供たちの遊び場。スキー靴をはいて雪合戦。(昭和30年代)

モンブランの急斜面を滑降する植木さん。世界で4人目の偉業を達成する。<br />” /></p>
<p>モンブランの急斜面を滑降する植木さん。世界で4人目の偉業を達成する。
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網元から譲ってもらった大きなブリを目の前にして喜ぶ植木さん。自らさばいてお客さんに提供することも。これぞお金のかからない贅沢。

 雪国の子供にとって、雪山は最高の遊び場。スキーもできれば雪合戦もできる。いくらでも楽しめる場所だった。燕温泉出身で、日本アルペンスキー学校校長である植木毅さんも、小さいころから妙高の山でスキーに慣れ親しんできた。学生時代は全日本選手権や国体などに出場。燕温泉で生家が旅館を営んでいた植木さんは、旅館経営に携わり、宿泊客にはスキーも教え、妙高で一番のお客さんが入る旅館にまで成長させた。

 植木さんは1967年に日本人初の北穂高岳滝谷C沢滑降を成功させ、日本山岳スキーの境地を切り開く。活躍は海外へも及び、ヨーロッパアルプス最高峰であるモンブランの北壁滑降(世界4人目)やアラスカのマッキンレー登山滑降(世界初)を成し遂げ、同年には日本初のヨーロッパスキーツアーでガイドを務めている。日本のスキー界をけん引してきた第一人者である。

 日本と海外の中学生を往来させるなど、国際交流にも熱心に取り組んできた。彼が育んできた交流を元に、現在妙高市はスイスのツェルマット、アラスカのガードウッドと姉妹都市、スイスのグリンデルワルドと友好都市条約を結んでいる。世界の名だたる雪山を征していく中で、人とのつきあいを大切にし、国内でも学生のスキー指導をしてきたからこそ、妙高の地にまた新しい交流の歴史が生まれたのだ。

 「儲けるという感覚ではなく、自分が楽しむという気持ちで人と接してきた。それがよかったのかも」と植木さん。「妙高の魅力は、お金をかけない楽しみ方を提供できること。田舎には田舎の良さがあってその自然を楽しむべき。これが本当の贅沢だと思う。」田舎の良さや自然を自らも楽しみ、相手にも楽しんでもらう、そんな姿勢で人間関係を築き上げてきた植木さん。これこそが、新潟がスキー旅行文化を受け入れ、多くの客人を迎え入れ、温かい人間関係を作ってきた根本にあったものなのではないだろうか。

 今も妙高を拠点に国内外を飛び回り、人生を謳歌する植木さん、御年73歳。スキー発祥100周年を語るには、なくてはならない人物の一人である。

 

 

file-39 日本スキー発祥100周年 100年目のスキー王国にいがた~雪を楽しもう!

100年目のスキー王国にいがた~雪を楽しもう!

100年目のレルヒ少佐

スキーをはいたレルヒさん

写真提供:新潟県観光振興課

 スキー発祥100周年を目前に、県内各地に出没しているのが、黄色いゆるキャラ「レルヒさん」だ。もちろん、その名のとおり、モデルは高田にスキーを伝えたレルヒ少佐。時に軽やかに、時に危うげに一本杖でゲレンデを駆け巡るレルヒさんは、子供たちにも大人気だ。レルヒさんを追って妙高市から登場したキャラクターが、妙高山をかたどった「ミョーコーさん」。ご丁寧におなかには妙高山の特徴である雪形のはね馬がデザインされている。そして、自衛隊高田駐屯地からは、レルヒ少佐のカウンターパートとなった長岡外史中将をモデルにした「がいし君」まで登場している。

 上越地方にゆかりを持つこれらのゆるキャラたちは、スキー発祥100周年にイベントに積極的に参加していくとのこと。スキーが入ってきてから100年後の2011年の「スキー王国にいがた」は、ゆるキャラ文化真っ盛りでもある。温泉や郷土料理、温かい人情との出会いに加え、ゲレンデでのゆるキャラ発見を新しい楽しみの一つに入れてみるのはどうだろうか。

スキーのほかにもプラスアルファ ~雪上で楽しむ新潟の雪国文化

スキーをはいたレルヒさん

写真提供:新潟県観光振興課

雪ん子

写真提供:新潟県観光振興課

 近年は、スキーのみならず、スノーボード、スノーシューなど、雪山の楽しみ方が多様化しているが、新潟には雪で楽しめることがまだまだたくさんある。地元の人が大事に受け継いできた雪中の伝統行事、雪国ならではの遊びなどを、スキー場内外で楽しむことができるのは、新潟の冬の魅力の一つだ。

 雪だるま・かまくら作り・雪合戦は、シンプルながら飽きの来ない雪国定番の遊びとして、いつの時代も子供たちに親しまれてきた。最近はキッズパークを開設しているスキー場も多いので、スキー場の豊富な雪を使って思い切り大きな雪だるまやかまくらを作ってみるのも楽しい。大人も、たまには大自然の中で童心に返って夢中になってみたい。

 新潟の夏の夜を彩る花火は有名だが、冬の花火もまた格別。白い雪原に色とりどりの花火の光が反射する幻想的な光景は、他では見ることのできない雪国の贅沢。雪祭りなどの大きなイベント時やスキー場でのスキーカーニバルで見ることができるので、新潟の匠の技を雪上で堪能して欲しい。たいまつ滑降なども雪と灯りが響きあうスキー場ならではの見どころ。

 小正月の夜に行われるさいのかみ(どんと焼き)がスキー場で開催される場合もある。雪の中で赤く燃える火に手をかざしていると、そのぬくもりがじんと染みてくる。長い棒につるしたスルメをあぶり、それを食べて無病息災を願う。炭がついたスルメが、なんとも無病息災にききそうな気がしてくるのは、キーンと冷えた冬の夜の空気と火の熱のマジックである。これも雪国ならではの感覚。ぜひ体験してみて欲しい。

 他にも新潟には、風船一揆、鳥追い、婿投げ、など、多くの雪中の伝統行事が受け継がれている。せっかく新潟まで足を運んだついでに、ぜひ地元の人に混じって、これらの雪中行事や雪国ならではの遊びを体験してみて欲しい。きっと、もっと新潟が身近になって、雪国の温かさを感じることができるようになるはず。

スキー発祥100周年関連の主なイベント

 【日本スキー発祥100周年記念式典、レセプション】 金谷山スキー場、ほか)
 【妙高スキー百年祭】 赤倉観光リゾートスキー場
 【レルヒ祭】 金谷山スキー場、キューピッドバレイスキー場

 各地でのスキー発祥100周年関連イベントはこちらから
 新潟各地の伝統行事などのスケジュールはこちらから

参考文献

 スキー(植木毅 著)
 スキー資料目録(上越市立総合博物館 編)
 スキーの原点を探る:レルヒに始まるスキー歴史紀行(長岡忠一 著)
 スキー発祥思い出アルバム(レルヒの会・上越市立総合博物館編)
 新潟日報(11月5日、12月12日付)
 日本スキー事始め:レルヒと長岡外史将軍との出会い(長岡忠一 著)
 妙高村史(妙高村史編さん委員会 編)

写真・取材協力

 上越市文化振興課
 関温泉スキー場
 日本アルペンスキー学校校長 植木毅氏
 妙高市観光協会
 新潟県観光協会
 新潟県観光振興課

file-39 日本スキー発祥100周年 県立図書館おすすめ関連書籍

  

県立図書館おすすめ関連書籍

「もっと詳しく知りたい!」、「じっくり読みたい!」という方、こちらの関連書籍はいかがでしょうか。以下で紹介しました書籍は、新潟県立図書館で読むことができます。貸し出しも可能です。ぜひ、県立図書館へ足をお運び下さい。

▷『日本近代スキーの発祥と展開-長岡外史とレルヒの役割を中心として』

(長岡忠一/著 メディアKコスモ出版 1979年発行 請求記号:N/784/1 )
 日本にスキーが誕生したのは、オーストリア=ハンガリー帝国の軍人レルヒ少佐が高田第十三師団に赴任してきた1911年。当時の師団長は「坂の上の雲」にも登場する異色の軍人長岡外史でした。この二人の出会いからから始まる近代日本スキーの黎明期を克明に描く1冊です。

▷『皆川賢太郎が教えるスキー完全上達』

(皆川賢太郎/著 実業之日本社出版 2006年発行 請求記号:N/784/Mi36)
 新潟県が生んだ冬季五輪アルペン・スキーヤー(トリノオリンピック、スラローム4位)皆川賢太郎が幼少期から現在までの滑りの変遷を振返りながら、「より速く、よりスムーズにすべるために」を熱く語ります。

▷『ちゃれんじ?』

(東野圭吾/著 角川書店出版 2007年発行 請求記号:914.6/H55)
 当代きっての人気作家・東野圭吾が40歳になってから始めたスノーボード。その奮闘振りを綴った爆笑エッセー集です。短編推理小説「おっさんスノーボーダー殺人事件」も楽しめます。


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(025)284-6001(代表)
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新潟県立図書館 http://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/

 

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