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file-88 古文書からみる上杉謙信

  

上杉謙信の人柄と手紙


  上杉謙信像

上杉謙信の晩年を描いたとされる「上杉謙信像」。
(米沢市上杉博物館蔵)


 越後の虎・上杉謙信。戦国時代、武田信玄との『川中島の戦い』をはじめ70余りの戦(いくさ)を行ったとされ、武勇をとどろかせた越後の英雄です。勇猛果敢な戦国武将としてのイメージが思い浮かびますが、謙信はどのような人物だったのでしょうか。

 今回は歴史的な資料や古文書、伝承から、謙信の人物像や戦国の世をひもといてみましょう。

川中島
激戦之図
   

謙信と武田信玄との一騎打ちの伝承を描いた「川中島 激戦之図」。
(新潟県立図書館蔵)
   
 


上杉謙信はどんな人物だったのか?

春日山の「林泉寺」

謙信が幼・少年期に学問を学び、軍団を率いて出陣をくり返していた頃に禅の教えを学んで悟りを開いたと言い伝えられる「林泉寺」。義の心は、ここで培われたとされる。謙信が寄進した山門に、自筆「第一義」の大額が掲げられており、見ることができる。


花ヶ前盛明さん

上杉謙信に関する研究の第一人者である花ヶ前盛明さん。「真面目な越後人の気質は謙信公が由来だと思います」と語る。


上杉謙信公像

北陸新幹線の開通とJR 上越妙高駅の新設を記念して、駅前に設置された「上杉謙信公像」。


上杉輝虎祈願文

上杉謙信の「上杉輝虎祈願文」。川中島に出陣する理由をのべ、戦勝を祈願している。(彌彦神社蔵)


 享禄3年(1530)、上越市中屋敷・大豆にあった春日山城で誕生した上杉謙信。寅(とら)年の生まれだったので幼名は虎千代(とらちよ)であったといわれています。元服して景虎(かげとら)を名乗りました。父である長尾為景(ながおためかげ)は、主君である越後守護・上杉房能(ふさよし)を下克上によって討ち、越後の国主となった戦国武将でした。謙信が生まれたのはまさにそんな乱世(らんせ)の時代でした。

 上杉謙信の人物像について、新潟県文化財保護連盟理事・居多(こた)神社宮司の花ヶ前盛明(はながさきもりあき)さんにお話しを伺いました。
「厳しい戦国を生き抜いてきた父・為景公から、謙信公は処世術を学んだでしょう。また、林泉寺で禅の教えを学び、義の精神を育み、豊かな教養も身につけました。謙信公が残した書や和歌は優れたものが多く、教養の高い『知将』であったと思います」。
 謙信は次のような和歌も残しています。

祈恋(いのるこい)
『つらかりし人こそあらめ祈るとて 神にもつくすわかこころかな』[上杉神社蔵]

 なんとも情緒あふれる和歌ですが、戦国武将といえども、漢詩や和歌などの教養が重要でした。前述の和歌は謙信自身のこと、例えば恋を詠んだのかは定かではありませんが、幼い頃からの学問をベースに、二度の上洛(じょうらく=京都へ上ること)を通して京の文化に触れることで、このような和歌を残したのでしょう。
 また、謙信の容姿については、肖像画(模写)が残されています。花ヶ前さんは、「肖像画や甲冑から、謙信公は大柄ではなく、中肉中背の当時としては一般的な体格だったのではないかと考えられます」とのこと。北陸新幹線開通にともなうJR上越妙高駅の新設に合わせ、駅前広場に『上杉謙信公像』が新たに設置されました。花ヶ前さんも性格や体格の予想から造形について意見を出したそうですが、なるほど、勇猛果敢というよりは『知的な武将』という印象です。

 一方で、『義に厚い』とされる謙信のイメージは、どこから来ているのでしょうか。戦に関する謙信の考え方を今に伝えるのが、彌彦神社に残された願文(がんもん)です。第5回川中島合戦前の永禄7年(1564)に奉納されたもので、最初に『輝虎筋目を守り非分をいたさざること』(輝虎(謙信)は筋目を守り、非分をしません)と書かれています。
 「筋目とは義のこと。義を守って悪いことはしませんと誓っています。願文では、自分が戦いにおもむくのは関東の平和を願ってであり、川中島に出陣する第一の理由は信州(現在の長野県)の武将たちが助けを求めているためと書いています。戦いにおいても筋を通し義を貫く、真面目な性格だったのでしょう」(花ヶ前さん)。

 謙信は、関東や信州など他国の武将から救援の要請があった場合、大義があると考えれば加勢しました。また、自分を頼って逃れてきた武将も放っておけなかったようで、領土の拡大にもこだわらなかったといわれています。越後で語り継がれるこのような謙信の生き方から、『義に厚い』というイメージが自然と生まれたのでしょう。花ヶ前さんは、「越後の人々の質実剛健で忍耐強い気質には、このような謙信公の言い伝えが大きく影響していると思います」と話します。

 

書状で見る謙信の人柄

上越市公文書センター 福原圭一さん

古文書についてお聞きした上越市公文書センターの福原圭一さん。「戦国の武将が交わした書状は文化の一つです」と話す。


上杉旱虎(輝虎)書状

謙信が景勝に送った「上杉旱虎(輝虎)書状」。景勝に対する謙信の親心が感じられる貴重な書だ。
(新潟県立歴史博物館蔵)


上杉謙信(輝虎)血判起請文

色部勝長に送られた「上杉謙信(輝虎)血判起請文」。左下の花押の部分に謙信の血判がある。
(新潟県立歴史博物館蔵)


 謙信の人となりをさらに詳しく考察するなら、書状(手紙)などの古文書(こもんじょ)が役に立ちます。上杉謙信の古文書に詳しい、上越市公文書センターの福原圭一さんはこう語ります。
 「上杉謙信は多くの書状を残しています。なかには景勝に送った書状もあります。謙信の書状を読むと、全般的に文章が長く、細かなことまで指示したり、繊細な性格だという印象があります」。

 
 新潟県立歴史博物館に収蔵されている『上杉旱虎(輝虎)書状』には、養子である長尾喜平次(景勝)から送られた守巻数(まもりかんず)の礼と、喜平次の字がうまくなったことを喜んで習字の手本を送ると記されています。喜平次の成長を喜ぶ謙信の姿を想像すると、ほのぼのとした親心が感じられます。

 また、謙信は少しお節介な部分もあったようです。天正5年(1577)9月、能登畠山氏の居城である七尾城を攻めた謙信が、同年の暮れに重臣の一人北条高広(きたじょうたかひろ)へ宛てた書状が写本(しゃほん)として残っています。
 「七尾城を落とした謙信は、前年に死去していた能登守護の畠山義隆(はたけやまよしたか)の未亡人と北条高広の息子・景広(かげひろ)の縁組みをもちかけます。義隆未亡人は、家柄が良く、年齢もちょうど良い。さらに、未亡人の息子は養子として引き取るとまで書いていて、けっこう強引に縁組みを進めようとする印象を受けます」(福原さん)。
 現代で例えれば、部下の世話を焼く上司といったところでしょうか。自分が気にかけていた景広が、謙信を気遣って30歳まで独り身であったことを心配するなど、謙信の人間味あふれる一面がうかがえます。

 永禄10年(1567)年に謙信が色部勝長(いろべかつなが)に送った起請文(きしょうもん=約束事に使われる古文書)では、勝長の活躍を『一世中の忠信』と褒め称えています。勝長が佐野(栃木県)に派遣される際に記されたものですが、『この内容に偽りがあれば、神仏の罰を受けるだろう』とあり、花押(かおう=現在のサインのようなもの)の上には血判(けっぱん)があります。また、料紙に使われているのは『牛玉宝印(ごおうほういん)』という護符です。
 実は、このような血判から謙信の血液型を調べた研究者がいたそうです。謙信は『AB型』だったそうで、人となりを想像するきっかけになるかもしれません。

書状のルール

書状のルールとして、日付・差出人実名に対して宛名が高ければ、地位や立場も高いことを表す。


古文書からはこのほかにもいろいろなことが読み取れると、福原さんは語ります。
「例えば、一般的な書状に使われる料紙は、切紙という横長のものです。それに対して、東日本では竪切紙(たてきりがみ)という縦長の形式を使います。謙信が美濃の織田信長などに送る書状は切紙ですが、小田原の北条氏など同じ東日本の大名に送るのは竪切紙が多いです。また、書状の最後に書かれる宛名の高さが、送り主との関係を表します。日付より高い位置に書いてあれば、相対的に地位や立場も高いということになります」とのこと。
 花押を書いてすぐに折った場合は墨が対面に写ったり、花押の判子も残されています。当時、本文は右筆(=祐筆(ゆうひつ)・書記官)が書くことが多かったのですが、花押は自ら書くのがほとんどです。書状を見る際の参考にしてみてください。

 伝承や肖像、古文書から感じる上杉謙信の人物像。遠い戦国時代の武将の本当の姿はなかなかうかがい知ることができませんが、人として普通の感性を持っていたように思われます。多くのヒントから想像を巡らせてみてはいかがでしょうか。



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