file-90 近世・近代の物流を支えた北前船

  

-一攫千金を夢見た時代-

  

 
「大船絵馬」

白山神社に奉納されている「大船絵馬」(「みなとぴあ」にて復元・複製して展示)。嘉永5年(1852)、豪商市島家が年貢米輸送の安全を祈願して奉納したもので、北前船も描かれている。

 江戸時代中期から明治まで、北海道から新潟、大阪へと、日本の西側・日本海を航海して物流の一翼を担った北前船(きたまえぶね)。

 江戸時代になると、幕府や諸藩の年貢米を船で遠くへ運ぶことは普通に行われていました。そうした中で、領地の産物の交易をして成り立っていた松前藩(現在の北海道松前町にあった藩)は、その流通や販売を近江(現在の滋賀県)の商人に任せるようになります。最初は商人の依頼で遠隔地に荷を運ぶだけだった船がやがて独立し、自らが商いを行う「北前船」へと発展します。

 まさに「一攫千金(いっかくせんきん)」を実現できる船の誕生で、多くの船主や船頭が商いを行い、あるものは夢をかなえ、あるものは夢破れて消えていきました。近世・近代に見る北前船の栄枯盛衰。

 今回の特集では、北前船の活躍と新潟湊(にいがたみなと)をはじめとする県内の物流、北前船が人々の暮らしにもたらしたものをひもときます。

北前船は、海を行く総合商社!?

北前船(弁才船)の模型

「みなとぴあ」にある北前船(弁才船)の模型。小規模の船はわずか3~4人で運行されていた。

パネル

「みなとぴあ」には北前船の航路を大きなパネルで紹介した展示などもある。

 北前船とは江戸時代中期に登場し、明治中期にかけて日本海を航行した木造帆船のことです。でも、それは西日本での呼び方で、新潟では「回船(かいせん)」と呼んでいました。船の形は、巨大な帆を張って風力で動く弁才船(べざいせん)。少人数で多くの荷物を、しかも比較的安全に輸送できる船として、日本海の海運の発展に一役買ったのです。

 北前船には大きな特徴があります。それは、荷物を運んで運賃を得るだけの船ではなく、荷物を買って運んで売る「買い積み」が主体の船であること。つまり、商売をする船だったということです。

 では新潟の港では、どのようなものが積まれ、そして降ろされたのでしょう。

 新潟の港と北前船との関わりに詳しい、新潟市歴史博物館の副館長・伊東祐之さんに聞きました。
 「積み込む商品で最も多かったのは、なんといっても米です。それを主に北海道や関西へと運んでいました。仕入れていたものは、山陰や関西から輸送される鉄などの原材料。それらは新潟の港から三条などへ行き、製品になったと考えられます。日常品として多かったのは塩でしょう。人々の生活には欠かせないものとして、会津のほうまで流通したといわれます。また大阪からは、庶民が身につける古着なども多く入ってきたようですね」。

 稲作を行わない北海道には、当然ながら藁(わら)もないため、新潟湊からはよく畳も運ばれたと言います。「とは言え、新潟には藁が山ほどあっても畳表(たたみおもて)がない。それを瀬戸内などから仕入れて、職人が仕事をし、畳に仕上げて北海道へと輸送していたようです。このように、港町ゆえにさまざまなところから集まる原材料に付加価値を加え、しかるべき場所に運ぶという、新潟は職人の町でもあったんですね」。

 新潟では米は安いけれど北海道では高く売れる。北前船の商売は、この「価格差」を前提としたものだけに、儲かるか否かは船頭の才覚がカギを握っていました。必要なのは、情報収集能力と、商機を読むセンス。
 「例えば、飢饉(ききん)になれば米の値段は一気に跳ね上がります。そういう情報をいち早く仕入れ、米不足になることが予想されるところに商品を持っていく。つまり、情報をもとに、どこで何を仕入れ、どこで売るかを考えて航路を描くことが船頭には求められたんです」と伊東さん。なるほど、北前船は今で言う総合商社のような役割を担っていたわけです。
 「それが一攫千金の北前船ロマンにつながる部分。ひとつの航海で千両稼ぐことも夢ではない反面、難破したら船も荷物も失ってしまう。まさにハイリスクハイリターンの商売だったということですね」。
 

新潟の寄港地と北前船ロマン

「航海図」

「航海図」北前船の航路と主な寄港地。この航路を通じて、日本各地がつながっていた。

伊東祐之さん

新潟市歴史博物館みなとぴあ・副館長の伊東祐之さん。「一攫千金を夢見た北前船のロマンが魅力ですね」と笑顔で語る。

 北前船の寄港地として栄えた港は、県内にいくつかあります。信州(現在の長野県)への窓口となった直江津、中越地方の拠点の一つ柏崎、日和(ひより)待ちとしても大切な港だった佐渡小木、佐渡と関係の深い出雲崎や寺泊、県北や米沢とつながる岩船などがそうです。

 「北前船の商売は、関西や北海道といった遠くから物資を運ぶだけで成り立っていたのではありません。県内のそれぞれの港から新潟に物を集める船や、新潟に運ばれてきた商品を中小の港に運ぶ船があって、商売ができたのです。そういった地域の経済圏があり、拠点となる新潟湊から全国へとつながっていたと考えられます」(伊東さん)。

 北前船は寄港地に着くと、毎回決まった回船問屋(かいせんどんや)に世話になることが決められていました。「世話になる」というのは、港に滞在する期間に寝泊まりし、商品の売買を仲介してもらうこと。回船問屋は船頭を儲けさせてあげられるように売り先を選び、またさまざまな情報を提供して北前船の商売を支えていたといいます。

 「混同されがちですが、回船問屋と北前船の船主は別です。中には回船問屋でありながら北前船を持って商売をしていた家もありますが、多くはありません。そもそも新潟には船主自体が比較的少なかったようです」と伊東さん。新潟には米という主力商品があったため、黙っていてもそれを買いに来る船がある。わざわざリスクの高い商売に手を出す必要がなかった、というのがその理由だったようです。

 そんな新潟県にも、実は有名な船主がいました。それは能生の伊藤助右衛門。最大で9隻もの船を持ち、主に北海道と行き来して、米を売り、海産物を仕入れて富を築いていったといいます。
「伊藤家はその後、北海道に支社を構えるなどして得た資金を元手に、地元頸城に銀行を興しました。また地主としても大きくなり、有力な資本家へと成長します。新しい時代が来て衰退していった船主が多い中、近代的な資本主義に対応し、その出発点となり得た名家だと言えるでしょう」(伊東さん)。
 この伊藤家こそ、ひとつの航海で千両を稼いだという伝説の船主。「北前船ロマン」の体現者でもあったのです。

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-一攫千金を夢見た時代-

フロンティア精神の系譜・小澤家

小澤家の店舗兼住宅

新潟を代表する商家のひとつ小澤家の店舗兼住宅。近年整備され、観光名所として人気がある。

 日本が新しい時代を迎えた明治初年。茫洋(ぼうよう)と広がる日本海に、新潟湊から乗り出していった一族がいます。初代七三郎に始まる小澤家です。江戸時代から続く数々の商家が隆衰を繰り返す中で、常に新しい分野に挑戦し、守備範囲を拡大していった小澤家。その隆盛の鍵を「過去にとらわれず、新しい価値や商売を求めていったこと」と語るのは、北前船の時代館 新潟市文化財 旧小澤家住宅の学芸員、若崎敦朗さんです。

 
そもそも小澤家は加賀国(現在の石川県南部)の出身。江戸時代初めに鳥屋野潟に近い長潟に移り住み、農業に従事し、大地主となりました。その分家が江戸時代後期に新潟町(中央区)に出て、在宿(ざいやど)を営むようになったのです。在宿とは、農家の人たちに宿を提供し、米穀商などに米や野菜を売る仲介をして手数料を得る商売。打ちこわしにあうこともありましたが、小澤家は着実に財力を蓄えていきました。「この頃から、回船業に携わりたいという夢があったのではないでしょうか」と若崎さんは推察します。自由な分家という立場、北前船や多くの船が出入りする湊という立地がその思いの背景にあったのかもしれません。

小澤家の初代当主・七三郎の肖像

仏間にある近代小澤家の初代当主・七三郎の肖像。北前船の船主として、回船問屋として、小澤家隆盛の礎を築いた。

小澤家の初代当主・七三郎の肖像

新潟市中央区にある「金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)」には、北前船の船主らが海上安全を祈願して奉納した「奉納和船模型」28隻がある(国の重要有形民俗文化財)。

 そして、明治時代が始まりました。規制緩和のスタートです。それまで株仲間制度で制限されていた回船業への新規参入が可能になり、七三郎は回船業に進出。明治10年(1877)頃には、観徳丸、幸運丸などの回船を所有し、北海道と瀬戸内・大阪との間で北前船の運航を行っていました。若崎さんは、「新潟湊が拠点ですから、主要商品は米でしたが、寄港地で塩や鰹節、砂糖、ニシンなどを仕入れて売る、幅広い商いを行っていたようです」と話します。
 この幸運丸の奉納模型が、小澤家にほど近い金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)に今も残っています。「航海の安全・商売の繁栄を祈願し奉納した模型で、回船業を営んだ小澤家の足跡が見られる貴重な資料です」(若崎さん)。

時代の流れを捉えた小澤家の軌跡

 一方で、やはり海運業にはリスクが付き物。当時の船は木造帆船で、運航は風次第、荒天になれば難破のおそれもあります。また、北前船の競合により、いち早く荷を運んだものが成果を上げ、二番手以降は儲けが少なくなるという状況もありました。若崎さんは、「明治9年(1876)の小澤家の資料では、上り荷で100円、くだり荷で10円の利益を得たという例も残されています。商売としての旨みとリスクを考え、七三郎は船主から、商業全般に関わる『回船問屋』への転換を図ったのでしょう」とのこと。

 明治20年代、七三郎は小澤家のほかの分家で営業していた回船問屋を引き継ぎました。そして、人口が多く、阿賀野川や信濃川の船運を活かして大きな商圏を持つ新潟という地の利を活かし、事業の規模を拡大していきます。
 さらに、明治29年(1896)には2代七三郎が家業を継ぎ、運送業を大きく発展させます。たとえば、大正3年(1914)、秋田県の黒川油田が開発されると、所有していた汽船・千代田丸を油槽船に改造し、産出された原油の輸送に当たりました。「今でいうタンカーです。当時、数少ない日本の油槽船の中で、最も巨大であったといわれています」(若崎さん)。

 

旧小澤家住宅の庭園

松島の風景を表現したという旧小澤家住宅の庭園には、全国各地の名石が配されている。見事な松の枝ぶりも見どころだ。

学芸員の若崎敦朗さん

旧小澤家住宅・学芸員の若崎敦朗さん。「初代当主をはじめ、小澤家の先見の明が、その発展につながっています」と話す。

 こうした小澤家の隆盛は、屋敷の増築からもうかがうことができます。明治初年から20年代にかけて敷地は2倍以上になり、30年代には意匠にこだわった新座敷や離れ座敷、衣裳蔵などが次々と増築されました。明治40年代には、さらに敷地を取得し、家財蔵や庭園が造られ、ほぼ現在の姿に。特に庭園は、伝統的な作庭に、海を芝生で表現するモダンな演出も加わった鑑賞性の高い空間です。「賓客(ひんきゃく)をもてなすための社交空間だったのでしょう」と若崎さん。この屋敷には、みなとまち新潟の華やかな歴史が確かに息づいています。

 

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-一攫千金を夢見た時代-

新たな産業を生んだ北前船

 「北前船で興味深いのは、運んだ原材料を加工する産地が経路上に生まれ、それがさらに北前船で運ばれて新たな産物を生んだことです」。そう語るのは北前船関連の古文書にも詳しい、新潟県立歴史博物館・学芸課の田邊幹さんです。江戸時代の末期ともなると地域間の産業が連携して行われるようになりますが、その物流を支えた柱の一つが北前船です。より広域な北前船の役割を見ることで、船主や船頭のロマンとはまた違った一面が見えてきます。

「松前桧山屏風」

「松前桧山屏風」。北海道の松前で、ニシンを鉄鍋で加工して俵詰めする様子が描かれている。(函館市中央図書館所蔵)

 「例えばニシンが分かりやすい例です」(田邊さん)。北前船が運んだ物の中でも、大きな位置を占めるのが北海道のニシンです。ニシンは北海道で身欠きニシン、肥料、魚油(ぎょゆ)の3つに加工され、北前船の西廻り航路(※北海道から日本海を通って大阪まで行く航路)で各地に運ばれました。ニシンを加工するためには直径1.3メートルほどもある大きな鉄鍋(鰊釜)が使われましたが、鉄鍋の産地は鋳造の盛んだった富山県の高岡市で、その材料は山陰地方から多く運ばれました。また、ニシンは藁(わら)で包み俵にして運びますが、当時米が採れなかった北海道には藁がないので、新潟や北陸から運ばれたものを利用しました。これらはいずれも北前船がその多くを運んでいたのです。

 「ニシンを使った肥料は北海道から瀬戸内に運ばれましたが、その肥料は綿を育てるために使われました。当時、綿を使った衣類は高価で、北陸や東北、北海道ではそのまま着ることはなく、古手(古着)をいったんほどき、在地(ざいち)の楮(こうぞ)など樹皮繊維を混ぜて織り直した裂織(さきおり)が、庶民や船乗りに利用されました」(田邊さん)。

 循環するように成り立っていた地域の産業。自分たちの地域にないものを北前船を利用して仕入れ、新たな製品を作る商いのスタイル。これは、新潟市歴史博物館みなとぴあの伊東さんが話したことにもつながります。「私はこのことが北前船の一番大きな功績だと考えています。時代の先駆けとしても大きな意味がありました」と、田邊さんは語ります。

県内各地に残る北前船の足跡とその終焉

出雲崎の「客船帳」

北前船の船主の名が記載された出雲崎の「客船帳」。帆印も描かれている。(出雲崎町教育委員会所蔵)

 新潟県内には、北前船に関してどのような記録が残っているのでしょうか。

 当時の北前船の運航を知る上で重要な資料が、出雲崎町に残されている客船帳(きゃくせんちょう)です。北前船は、各港で取引する回船問屋があらかじめ決まっており、仮に抜け駆けしてほかの問屋が取引すると、大きな問題になりました。港に近づいてくる北前船の船主が誰かを見分ける方法が、帆に描かれた印=帆印(ほじるし)です。また、問屋と取引した内容は台帳に記録されましたが、これが客船帳です。

 「出雲崎の客船帳は大変貴重なものです。当時盛んに北前船が運航していた様子が分かりますが、その量、厚さには驚きます」(田邊さん)。客船帳には時系列と船主別の2種類があり、船の名前、船頭、船主、どんなものをどのぐらい取引したのかなどが記されています。有力な船主、例えば能生の伊藤家などは9隻の北前船を所有し、船主として多く記載されていることから、その繁盛ぶりが分かります。厚さ7~8センチはあろうかという客船帳からは、港に入ってくる北前船を出迎える問屋の活気も伝わってくるようです。

「白山媛神社」にある絵馬

長岡市寺泊の「白山媛神社」にある絵馬(国の重要文化財)。北前船の船主が奉納したものだ。

「白山神社」にある鳥居

新潟市中央区の「白山神社」にある鳥居は、柱の部分に「尾道」の文字が見える。当時、北前船など、海路で運ばれたと考えられている。

田邊幹さん

新潟県立歴史博物館・学芸課 主任研究員の田邊幹さん。「北前船の物流は日本の産業に大きな影響を与えました」と語る。

 このほか、県内の北前船の寄港地にある神社には、船主が奉納した絵馬が多く残されています。代表的な例では、新潟市の金刀比羅神社、長岡市寺泊の白山媛神社(しらやまひめじんじゃ)などがあります。また、新潟市の白山神社には北前船で運ばれたとされる鳥居やこま犬もあるので、興味のある方は調べてみてはいかがでしょうか。

 繁栄を極めた北前船も、明治に入ってからの電信や郵便など通信の発達による全国の相場の安定、鉄道の発達などにより、明治30年代にはその姿を消します。田邊さんは、「地域間の価格差がなくなったことで、北前船を運航しても利益が出しにくくなったのです。また時間に正確な陸送が発達し、リスクの大きい北前船での輸送はメリットが少なくなりました」と話します。
 北前船の歴史は幕を閉じますが、船主や船頭の一攫千金の夢と冒険心を乗せた北前船は、研究者をはじめ、今も多くの人々の心を惹きつけています。
 

新潟県立歴史博物館・開館15周年記念特別展「北前船」

 新潟県立歴史博物館では、江戸時代から明治時代にかけて活躍した北前船の企画展・開館15周年特別展「北前船」を、平成27年7月25日(土)~9月6日(日)で開催します。北前船の商売や運んだものなどから、当時の人々の生活にどのような影響をもたらしたのかを、絵画や絵図、和船模型、古文書(客船帳)など、豊富な資料から紹介します。日本列島をより広域に活動した北前船の役割など、興味深い展示もあります。詳しくは新潟県立歴史博物館のホームページ(こちら)でご確認下さい。

 江戸から明治へ、時代の潮流に乗って栄え、ロマンとともに消えていった北前船。各博物館や観光名所、イベントで、北前船の世界を体感してはいかがでしょうか。
 

    


■ 関連サイト
新潟市歴史博物館みなとぴあ http://www.nchm.jp/

北前船の時代館 新潟市文化財 旧小澤家住宅 http://www.nchm.jp/ozawake/  
新潟県立歴史博物館 http://nbz.or.jp/  
新潟総鎮守 白山神社 http://www.niigatahakusanjinja.or.jp/  
寺泊観光協会 http://www.niigata-inet.or.jp/teradomari/  
函館市中央図書館 http://hakodate-lib.jp/  

■ 取材協力・資料提供
新潟市歴史博物館みなとぴあ 伊東祐之さん
北前船の時代館 新潟市文化財 旧小澤家住宅 若崎敦朗さん
新潟県立歴史博物館 田邊幹さん
新潟総鎮守 白山神社/金刀比羅神社/白山媛神社
出雲崎町教育委員会/寺泊観光協会/函館市中央図書館

■ 参考資料
加藤貞仁(2003)『海の総合商社 北前船』無明舎
加藤貞仁(2002)『北前船 寄港地と交易の物語』無明舎
東海林久三郎・小田昭三郎・小川芳吉編(1997)『北前船・小廻船と瀬波湊』瀬波郷土史研究会

 

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