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file-94 出雲崎の宮大工集団と新潟の社寺建築(後編)

  

出雲崎大工の仕事と妻入りの町並み

中世建築の趣を伝える種月寺

種月寺の本堂

種月寺の本堂。背後を山に抱かれ、静謐な空気の中に建つ。

 中世の流れをくむ、豪快で骨太な作風。出雲崎大工の特徴を色濃く残す種月寺は、新潟市西蒲区の岩室温泉の南端、石瀬集落にあります。文安3年(1446)に、南英謙宗が守護・上杉房朝の援助を受けて建立した曹洞宗の古刹。室町時代には、村上市の耕雲寺、南魚沼市の雲洞庵、五泉市の慈光寺と並んで、越後の曹洞宗四大道場のひとつに数えられました。

 現在の本堂は、元禄12年(1699)に出雲崎大工・小黒甚七が棟梁となって建築したもの。昭和57年(1982)から行われた近世社寺建築調査の過程で、文化財の修復・研究が専門の山崎完一さんによってその価値が見いだされ、昭和61年(1986)には新潟県文化財指定を、平成元年(1989)には国の重要文化財指定を受けました。

種月寺の本堂の廊下

一間おきに整然と角柱が並ぶ種月寺の本堂の廊下。中世建築の趣を残す重厚な作風。

種月寺に残る棟札

種月寺に残る棟札

種月寺に残る棟札。出雲崎大工・小黒甚七の名が記されている。

 「出雲崎大工らしい、骨太で豪快な建物です。どっしりとして威厳がありますね」と、山崎さんは職人の仕事を褒めます。「寺の格にふさわしい、堂々たる作風です」。
 「また、太い柱を一間(いっけん。約1.8メートル)の間隔で並べていること、柱と柱をつなぐ長押(なげし)が装飾ではなく構造材となっているのも、古さの特徴。鎌倉時代の流れを受け継いだ、質実剛健な気風が感じられます。建築が好きな方は天井の垂木(たるき。屋根板を支える木)も見てください。組み方が独特です」。

 寺に残る棟札(むなふだ)には、元禄11年(1698)8月18日に着工し、同12年7月12日に落成したことが、小黒甚七の名前とともに書かれています。さらに、種月寺にはもう一枚棟札があり、文化10年(1813)に、出雲崎大工・源右衛門が棟梁となって、開山堂(代々の住職の位牌を祀る堂)を増設したと記されています。
 種月寺で江戸時代に2回行われた建築では、いずれも出雲崎大工が腕を振るっていたことがわかります。


寒河江真爾さん。

寒河江真爾さん。「屋根面積が900平方メートルと広く、曹洞宗寺院として県内で最大級の規模でしょう」。


 種月寺の第41代住職、寒河江真爾(さがえしんじ)さんは、平成18年(2006)から同20年(2008)の保存補修工事で見た光景が忘れられないと言います。
 「柱だけを残し、それ以外の部材は外したのですが、痛みが少なく建立から300年経ったものとは思えませんでした。先人は金具や釘を使わないで、これほど大規模なものをよくぞ作ったものだと、感動しました。今のような耐震対策はされていないでしょうに、新潟地震でも中越地震、中越沖地震でも被害はなく、300年以上無事に保ってきたのは、江戸時代の大工の知識や経験のなせることなのでしょうね」。
 約2億円をかけた大規模な保存補修工事では部分補修の他に、昭和に入って屋根を覆っていた鉄板をはずし、昔ながらの姿を取り戻すべく茅(かや)もふき替えました。
 「先人が苦労して建てたもので、300余年、火事も出さずに今日まで来ることができました。私の代もしっかりと守り、次の世代に伝えたいと思います。きちんと手入れをすれば、これから250年は持つと、補修工事の施工監督さんに言われましてね。これはがんばらねばなりません」と、寒河江さんは文化財継承についての思いを新たにしたのでした。

社寺建築の足跡に附合する妻入りの町並み

 出雲崎大工の小黒甚七が種月寺を、小黒甚内が南魚沼市の雲洞庵、柿崎町の楞厳寺(りょうごんじ)を作ったことが、残っている棟札で明らかになっています。
 「それ以外にも、小黒杢衛門(もくえもん)が寛文10年(1670)頃に村松藩(現・五泉市)で町づくりに関わった記録があり、時期的に重なる慈光寺建立にも関わったのではないかと推察できます」と、山崎さんは言います。
 「加茂市の加茂川上流の方にある日吉神社も出雲崎大工。こけらぶきの屋根の形はセンスがいいですね」。社寺以外にも、長岡や与板、津南、中里、十日町、川西など中越地方に、出雲崎の大工集団の痕跡が残っているそうです。

出雲崎町の妻入りの町並み。

出雲崎町の妻入りの町並み。

 「彼らが社寺を建てた町は、妻入りの家並みが多い。妻入りは出雲崎大工が得意とする建て方。社寺だけではなく、町づくりにも関わったのだと私は考えています」。
 妻入りとは、切妻屋根両端の三角形になった壁面に入り口が設けられた建物。出雲崎町では、妻入りの家々が軒を連ねた町並みが、海岸線に沿って約4キロも続いています。江戸時代に天領としてにぎわった出雲崎町は、人口密度が高く、多くの人が居住できるように、間口が狭く奥行きの長い妻入りの建築様式が採られました。「その建て方が他の地域に伝播したのは出雲崎大工がその地に行ったから」。山崎さんは妻入りの町並みと出雲崎大工の関係に注目した論文を学会で発表し、今も調査を続けています。

 古代には出雲の国(現・島根県)との交流があったとの伝承が残る出雲崎。近世では佐渡の金銀の荷揚げ港に加え、北前船の寄港地にもなり、海運の拠点として栄えました。しかし明治維新以降、天領や代官所は廃止され、運送や交通の主流が鉄道に移っていくと港は寂れ、宮大工や職人たちは活躍の場を求めて移住していったようです。
 出雲崎の宮大工集団は、港の盛衰とともに生まれ、消えた、まさに時代を映す存在だったのです。
 



■ 取材協力
一級建築士・統括設計専攻建築士 山崎完一さん
種月寺住職 寒河江真爾さん
出雲崎町産業観光課

■ 資料
「新潟県近世社寺建築研究調査報告」新潟県教育委員会 昭和60年(1985)
鈴木哲・山崎完一 「新潟県における町屋の妻入り・平入りに関する調査研究」
日本建築学会昭和60年度大会学術講演梗概集 昭和60年(1985)
「角川日本地名大辞典 新潟県」 昭和64年(1989)

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