file-94 出雲崎の宮大工集団と新潟の社寺建築(前編)

  

骨太な気風が身上。出雲崎大工が残したもの。

 江戸時代、幕府直轄の天領として栄えた出雲崎。そこに、神社や寺の建築に腕を振るった宮大工(神社・仏寺・宮殿の建築・補修を専門とする大工)集団が存在したことをご存じでしょうか。江戸時代の初めに頭角を現し、出雲崎からやがて県内各地に活躍の場を広げた、彼らの足跡に注目します。

時を超えて発見された宮大工集団の足跡

山崎完一さん

文化財建造物の研究、修復を手掛ける統括設計専攻建築士、山崎完一さん。新潟県内の伝統的な建築物の調査に欠かせないキーパーソン。

 昭和60年(1985)、新潟県教育委員会が新潟県内の近世の社寺建築を調査し、報告書をまとめました。その過程で、出雲崎の大工が残した棟札(むなふだ)が各地で見つかったのです。
 棟札は、建築や改築の目的・年月日・建築主・大工の名前などを記した木製の札。江戸時代のものを中心に多数発見され、出雲崎の宮大工集団の存在が、時を超えて明らかになったのです。広範囲にわたる彼らの活躍は、調査の中でも際立っていました。

 この調査に参加し、現在も伝統建築の保護修復などに関わる山崎完一さんは、次のように話します。
 「棟札は建物の戸籍みたいなもの。屋根裏や建物内部の高所に取り付けられているので、調査が入るまで人目に触れることがなかったんでしょうね。貴重な発見でした」。

 出雲崎の宮大工集団が手がけた建築物と判明したのは、出雲崎町の双善寺のほか、岩室村(現・新潟市西蒲区)の種月寺や塩沢町(現・南魚沼市)の雲洞庵、十日町市の神宮寺、柿崎町(現・上越市)の楞厳寺(りょうごんじ)など。
 種月寺、雲洞庵は越後の曹洞宗四大道場に数えられた寺であり、出雲崎大工の勢力がうかがわれます。また、彼らの多くが小黒姓を名乗っていることから、一門としてまとまり、技の継承や情報の共有を行っていたことが想像されます。

佐渡金銀山

江戸時代に幕府の財源を支えた佐渡金銀山。

 ところで、なぜ出雲崎の地に宮大工集団が生まれたのでしょうか。
 「最大の要因は佐渡の金銀山でしょうね。江戸時代の金銀山開発で、職人や労働者が佐渡にたくさん集まってきた。その中には大工たちがいたはずです。金銀の荷揚げ港としてにぎわった出雲崎も、建築の仕事が多かったでしょうからね」。

 元和2年(1616)に代官所が置かれ、天領となった出雲崎は、佐渡の金銀の唯一の荷揚げ港であると同時に、北前船の寄港地、北国街道の宿場町、漁業の拠点としての側面も持ち、江戸時代に大いに繁栄しました。建築のニーズが高まり、職人が流入し、必然的に大工集団が誕生したと推察されます。
 「もう一点は、天領だったこと。藩領に比べて移動の規制が少なかったことでしょうか。魚沼地方を中心に、県内の各地で活躍したことが調査で分かりました」と、山崎さんは話します。
 

出雲崎から東京へ、北海道へ。

雲洞庵

どっしりとした重厚な建物の雲洞庵。新潟県指定文化財の本堂は、宝永4年(1707)に出雲崎大工によって再建されたもの。

 出雲崎の宮大工の仕事について、山崎さんは「骨太でありながら、センスの良さを感じさせる作風」と説明します。太い柱と梁を用いた無骨な、それだけに重厚な作風が彼らのトレードマーク。

 しかし、その存在は地元の出雲崎町でも、ほとんど忘れ去られていました。地域の宝を埋もれさせてはならないと、山崎さんは伝統建築保護修復の仕事の傍ら、出雲崎町が開催する「出雲崎総合大学」で講師を務めることにしました。

 「出雲崎総合大学」とは、出雲崎町民の学習意欲を促進し、健康で文化的な活力あふれる、生きがいのある生涯学習社会の実現を図ることを目的とした、町民対象の生涯学習講座です。山崎さんは平成22年(2010)から、出雲崎の宮大工集団が作った
出雲崎の町並み

日本海の海岸線に沿って家々が立ち並ぶ出雲崎の町並み。佐渡金銀山の荷揚げ港として栄えた当時の面影が今も残る。

社寺を巡る、建物の特徴や意匠についての講義を行っています。講義は人気を集め、5年間で延べ200名の町民が参加(出雲崎町の人口は4,705人 ※平成27年時点)。地元出雲崎での認知は進んでいます。活動は今年、6年目に入りました。

 さて、建築の世界にも時代の変化が訪れます。
 中世建築の流れをくむ重々しい作りが出雲崎大工の特徴でしたが、江戸時代末には、細くした柱が水平材を支え、大きな空間を確保できるようにした瀟洒(しょうしゃ)な造りが建築の主流となります。出雲崎の宮大工集団は、やがて姿を消していきました。

 「仕事で長期間滞在した十日町などに移り住んだり、新天地を求めて東京へ渡ったりもしたようですね。明治時代に、東京の銭湯のほとんどを新潟出身の大工たちが建てたという話がありますが、もしかしたら出雲崎の大工が活躍したのかもしれませんよ」と、山崎さんは笑います。
 また、北海道へ渡った大工たちもいました。その中の一人が、後に伊藤組を設立し、「北の山林王」とも呼ばれた伊藤亀太郎です。
 亀太郎は文久3年(1864)に、出雲崎の宮大工伊藤栄吉の二男として生まれました。大工修行の後、北海道へ渡り、明治26年(1893)に伊藤組を設立。やがて函館区役所を始め、札幌駅舎、札幌中央郵便局などランドマークともいえる建物を次々と建築。建築業の他に林業、製材業も手掛け、北海道で大きな成功を収めました。

 江戸時代の初めに現れ、江戸時代の終焉とともに地元から静かに姿を消し、全国へと散らばっていった出雲崎の宮大工集団。
 次回は彼らが建てた種月寺を訪ね、仕事ぶりをたどります。

 


■ 取材協力
一級建築士・統括設計専攻建築士 山崎完一
株式会社グリーンシグマ
出雲崎町教育委員会

■ 資料
「新潟県近世社寺建築研究調査報告」新潟県教育委員会 昭和60年(1985)

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