遺跡大好きな滝沢先生に聞く!新潟の遺跡番付①【横綱編】
遺跡って難しそう?と思うけれど、実は大昔の人たちが暮らした「跡」。
昔の人が、どんなものを食べて、どんな暮らしをしていたか、遺跡にはそれを知る手がかりがたくさんあります。
そして、新潟県内には、おもしろい遺跡が数多くあります。
ここでは弥生・古墳時代の遺跡を専門に研究している滝沢規朗さんを先生に、新潟県内の遺跡を案内してもらいます。

新潟県観光文化スポーツ部文化課世界遺産室室長・滝沢規朗さん。大学から考古学を学び、専門は弥生・古墳時代。新潟県内の数々の遺跡の発掘調査を行ってきました。今の本業は世界遺産「佐渡島の金山」を守り、価値を伝えること。「今回、世界遺産の話はありませんが、佐渡を訪れ、世界遺産を感じて欲しいと強く願っています。」
滝沢先生に最初に聞いてみた。
「弥生時代から古墳時代の新潟は?」
Q.新潟には弥生時代から古墳時代の遺跡がたくさんある?
A.はい、たくさんあります。本当は全部紹介したいのですが、今回は私の好きな弥生時代の紀元前(4世紀~3世紀前半)から古墳時代(3世紀後半~6世紀)までの遺跡で、皆さんが見学できる遺跡を主に選びました。
Q.なぜ遺跡「番付表」なの?
A.私は遺跡が大好きですが、相撲も大好き。だから私の得意な時代の遺跡の中でも、特に好きな遺跡を、相撲の番付表風に選んでみました。横綱、大関、その次に関脇、小結、それぞれに東と西があり、東の方が西より少し上位になります。これを見て、みなさんに遺跡を訪れてもらえるとうれしいですね。
Q.弥生時代から古墳時代の新潟について教えて。
A.弥生時代と古墳時代の遺跡や古墳(※1)から、新潟は日本海、そして信濃川や阿賀野川などから人やモノ、情報が集まる重要なポジションだったことが分かります。
新潟は邪馬台国、そしてヤマト政権(※2)と国の中心とされた畿内地方(※3)の情報が伝わった、日本海側最北の地。北海道から東北にかけての北方社会(※4)から見れば、中央の情報の窓口。情報を求めた多くの地域との交流が盛んに行われていたと思いますよ。
中央とのつながりだけでなく、多くの地域との交流があって、当時の「新潟」が成り立っていました。それを解き明かすのが弥生・古墳時代の遺跡です。
ぜひ、図書館の概説書や博物館、遺跡のガイダンス施設で学び、現地の遺跡に行って、風景とともに考えてみてくださいね。
※1 3世紀半ばから7世紀にかけて、当時の権力者や豪族の墓として土を高く盛り上げて造られた墓。
※2 3世紀後半、日本で初めて成立した大規模国家ともいわれ、現在の奈良盆地の東南部を中心とする豪族たちの政治連合。
※3 今の奈良、大阪、京都あたりのこと。弥生時代終末期ごろから力を持ったエリアで、政治・文化の中心地でした。
※4 主に日本列島の北東部、特に北海道やその周辺島嶼(北方四島など)における、歴史、文化、生活のあり方を指す言葉。
東の横綱:山元遺跡(村上市)
【弥生時代後期・国史跡、出土品は県指定】
新発見! ないはずのムラがありました

この写真の、木がない部分が発掘したところ。高速道路を作る予定でしたが、ここがとても重要な遺跡と分かり、山を崩さずにトンネルを掘って高速道路が作られました。今は多くの人に見てもらえるよう、村上市が整備を進めています。
写真提供:村上市教育委員会/新潟県教育委員会撮影
Q.なぜ山元遺跡が東の横綱なの?
A. ここが新発見された時に、私が調査を担当した遺跡で、国の史跡になったからです!
それまで「ない」と言われていた弥生時代後期(1世紀半~3世紀)の「ムラ」(※1)を発見したのです。
発見のきっかけは、ここに山を崩して高速道路を作る計画があり、「越後平野の北端で高台だから遺跡があるかもしれない」と思って、斜面のわずかに平らな場所で試し掘り(※2)をしてみると、次々と「濠」(※3)が確認できたのです。その時は本当に興奮して、「これが日本海側で最北の高地性環濠集落だ!」と鳥肌が立ちました。
高地性環濠集落とは、戦いに備えて丘や山などの高いところにムラを造り、敵の侵入を防ぐため、周囲に堀をめぐらせた集落(ムラ)のこと。
弥生時代になると、米作りに必要な川の水の権利や、鉄などの資源を奪いあう争いが、人々の間で始まったのです。
※1 縄文・弥生時代を中心に、人々が集団で生活を営んだ竪穴住居や貝塚、墓地などで構成される遺跡のこと。
※2 土木工事の前に遺跡の有無や内容を把握するためにする発掘調査のこと。遺跡があると分かっても工事を進める場合は、本調査をして記録を残す
※3 ムラの周囲に、敵の侵入を防ぐ役割を果たすためにめぐらされた溝。
Q.じゃあ、弥生時代にここで戦いがあったの?
A.それが、そうとも言えないのです。
というのも、発見した濠は浅くて幅も狭く、途中で途切れている。つまり、敵の進入を防ぐことができたかは微妙。
「当時、畿内地方など西日本であった戦いの情報が伝わって備えたもので、実際に戦いがあったかどうかは分からない」という意見もあります。
Q.弥生時代なのに、西日本の情報が新潟まで届いていたの?
A. 弥生時代には、日本海や信濃川・阿賀野川ルートで、東西南北から越後平野に人や物が入ってきていたので、はるか遠いところの戦いの情報が伝わっていたのは確かですよ.
西の横綱:城の山古墳(胎内市)
【古墳時代前期・国史跡】
ここで、ものすごい副葬品が出てきました

城の山古墳。昔から「ひとかご山」と呼ばれ、地域で大切にされてきた場所でした。
写真提供:胎内市教育委員会
Q.どうして城の山古墳が西の横綱なの?
A.この古墳の発見で、それまであまり高くなかった新潟県の古墳の注目度が一気に高まったからです。
田んぼの中の小山のような古墳は、古墳時代前期半ば(4世紀中ごろ)の直径約40mの円形の古墳「円墳」です。
円墳自体はそんなに大きくありませんが、墓穴(※1)は大きく掘られ、とても大きい木製の「棺」(※2)が発見されました。
私も少し掘ったのですが、さらにものすごいものが出てきました。
※1遺体や遺骨を葬るために掘られた穴
※2遺体を納める箱

上が矢を入れる筒「靫」。他にもヒスイ製の勾玉(※3)や中国製の銅鏡(※4)、国内最古の両頭金具。(※5)
※3 日本の古代の装身具の一種。巴の一片に似た形で、穴があり、ひもを通して首などに掛けた。
※4 弥生・古墳時代に祭器や権威の象徴として使われた、銅と錫の合金(青銅製)の鏡。
※5 弓の両端または末端付近に取り付けられた鉄製の装飾的な金具。
写真提供:胎内市教育委員会
Q.古墳から出てきた「ものすごいもの」って何?
A.副葬品(※6)です。畿内地方の古墳からは副葬品として武器・武具、工具、装身具がセットになって出てきていたのですが、城の山古墳もそれと同じようなセットで副葬品が出てきました。
その中には「靭」といって、矢を入れる漆塗りの箱が3点見つかり、全国で一番多いとされます。古墳時代前期の日本海側最北の古墳で、当時有力なヤマト政権との交流が広がっていたことが分かります。
※6 埋葬された遺体とともに納められた鏡・武器・装身具などの品々。死者の生活用品やあの世の道具、または、身分や権力を示す象徴。
問い合わせ/
・山元遺跡
村上市教育委員会生涯学習課文化行政推進室 tel.0254-53-7511
・城の山古墳
https://www.city.tainai.niigata.jp/kurashi/kyoiku/bunkazai/jyonayama_kofun.html
胎内市教育委員会生涯学習課文化・文化財係 tel.0254-47-3409
この記事の作成日:令和8年3月