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北前船きたまえぶね

Q. 北前船きたまえぶねはどんな船だったの?
A. 北前船は、江戸時代半えどじだいなかばから明治30年代にかけて、大坂おおさか(大阪)と北海道ほっかいどうを行き来した船です。大阪湾おおさかわんから瀬戸内海せとないかい日本海にほんかいとおっていますが、日本海を航海こうかいしたのは、大きな一枚ので走る千石船せんごくぶねばれる船でした。

※千石船とは?
木造もくぞう大型船おおがたせんでお米をやく1,000石(1年間に約1,000人が食べるりょうめる船で、弁財船べざいせんともいいました。

Q. 北前船きたまえぶねの役目は?
A. 北前船が活躍かつやくしていたころは、今のように車も電車も飛行機ひこうきもなかったので、北前船は多くの商品を全国各地ぜんこくかくちに運ぶ重要じゅうよう役割やくわりたしていました。また、荷物にもつを運ぶだけでなく、立ちる港で商品を売り買いして、各地にいろいろな商品や文化をとどけました。各地のみなとで安いと思う商品があれば買い、高く売れるものがあれば売っていたので、知恵ちえ努力どりょく次第でお金持ちになる人もたくさんいました。

Q. 北前船きたまえぶねにはどんな人たちがっていたの?
A. 船の最高責任者さいこうせきにんしゃである「船頭せんどう」をはじめとして、航海士こうかいしである「おもて」、水夫長すいふちょうである「親父おやじ」、事務長じむちょうである「知工ちく」の三役さんやくばれる人たちと、一般いっぱんの船乗りである「水主かこ」、炊事すいじ雑用係ざつようがかりの「かしき」で、合計10~15人が乗っていたといいます。
 それぞれに役目があり、商人でもあった船頭は取引の責任者だったので、人並ひとなみ以上の能力のうりょく必要ひつようでした。船乗りになると最初さいしょは「炊」からスタートしました。

Q. 新潟県にいがたけん内にも北前船きたまえぶね寄港地きこうちはあったの?
A. 新潟県内には北前船の寄港地がいくつかありました。信州しんしゅう現在げんざい長野県ながのけん)への窓口まどぐちとなった「直江津なおえつ」や、中越地方ちゅうえつちほう拠点きょてんの一つであった「柏崎かしわざき」、航海にてきした天候てんこうや風を待つ大切なみなとだった「佐渡小木さどおぎ」、佐渡と関係かんけいの深い「出雲崎いずもざき」や「寺泊てらどまり」、県北や米沢よねざわ(現在の山形県やまがたけん米沢市)とつながる「岩船いわふね」、そして信濃川しなのがわ阿賀野川あがのがわを利用し、越後平野えちごへいやや遠く会津藩あいづはん(現在の福島県ふくしまけん西部)、米沢藩よねざわはん(現在の山形県南東部)からも荷物にもつが運ばれてきた「新潟湊にいがたみなと」がありました。

北前船の航路と寄港地

 

Q. 北前船きたまえぶねは、新潟県にいがたけんに何を運んで来たの?また何をのせて出発したの?
A. 北前船は大坂おおさか(大阪)から瀬戸内海せとないかい、そして日本海にほんかいとおって蝦夷地えぞち現在げんざい北海道ほっかいどう)へ、商品を売買しながら航海こうかいしました。
 西日本からは木綿もめんしお、鉄などの原材料げんざいりょう、そして古着ふるぎなどが運ばれてきました。
また東北とうほく、北海道からはべにや材木が入ってきました。
 新潟県からは米を北海道や関西かんさいへと運んでいました。北海道にはわらもなかったため、たたみも運ばれたそうです。

Q. 北前船きたまえぶねは各地にどんな影響えいきょうをもたらしたの?
A. 各地のみなとで商品を売買ばいばいしたことにより、新しい文化や産業さんぎょうが各地で生み出されていきました。たとえば、北前船が北海道ほっかいどうから運んだ昆布こんぶによって、西日本で昆布だしを使った食文化が生まれました。
 また、北前船の船乗りが各地の民謡みんようおぼえ、寄港地きこうちに伝え、その地域ちいき定着ていちゃくした例もあります。新潟県を代表する民謡「佐渡おけさ」は、九州の「ハイヤぶし」が伝わったものです。

Q. 北前船きたまえぶねを見ることはできるの?
A. 佐渡市さどし小木おぎ民俗博物館みんぞくはくぶつかん千石船せんごくぶね白山丸はくさんまる展示館てんじかんで、北前船として使われていた千石船「白山丸」の実物大じつぶつだい復元船ふくげんせんを見ることができます。

佐渡市小木民俗博物館の千石船「白山丸」展示館はこちらを見てね!
https://www.city.sado.niigata.jp/site/museum/458.html

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