河井継之助

Q.河井継之助ってどんな人?
A. 継之助は、江戸時代の終わりごろ、長岡藩のリーダーとして活躍した人です。とてもかしこく、新しいことに興味があり、今の東京などへ勉強に行きました。いろいろな人と出会い自分の考えを広げる中で、西洋の知識も取り入れ、長岡の人々の暮らしをより良くするために努力しました。
河井継之助記念館では、継之助の書や日記などが展示され、
継之助について学ぶことができます。
Q.継之助はどんなこどもだったの?
A. 継之助は、自分が正しいと思ったことを、どんなに大変でもあきらめずに続けた人で、新潟の方言では「ごうじょっぱり」とも言われます。こどもの頃から年上の人に理不尽なことを言われても、決してひるまない、意思の強いこどもだったと伝えられています。自分が決めたことは、周りから反対されても、最後までやり遂げました。当時は、偉い人には逆らわず従うのが当たり前の時代でしたが、継之助は誰であっても間違ったことは許さない人でした。
河井継之助の銅像
Q.継之助が好きだった食べ物は?
A. 継之助は長岡藩の武士の一人ですが、「戊辰戦争」という戦いのときに、「戦いに巻き込まれず、長岡藩を守るには?」と考えて行動した彼の生き方は多くの物語に描かれました。有名な作家・司馬遼太郎の「峠」という作品に登場したのが「桜飯」。ダイコンの味噌漬けを細かく刻んでごはんに炊き込んだものです。ほんのり桜色をしていることや、刻んだダイコンが桜の花びらのように見えることから、長岡藩では「桜飯」と呼んでいたようです。
桜飯
Q.戊辰戦争って?
A. 日本のルールが変わろうとしていたとき、新しい政府を作ろうとする「新政府軍」と、昔からの幕府を守ろうとする「旧幕府軍」が戦った戦争を 「戊辰戦争」 といいます。その中で、越後(新潟県)で起きた戦いを「北越戊辰戦争」と呼びます。
継之助は「どちらの味方にもならず、自分たちの力で生きていこう」と考えましたが受け入れられず、ついに戦うことになってしまいました。新政府軍は2万人、長岡藩など旧幕府軍は8千人と、兵の人数が違いましたが、継之助は「ガトリング砲」という、たくさんの銃弾を一度に撃ち出すことができる西洋の最新武器を使い、一時は戦いを有利に進めました。しかし、この戦いで継之助は足に大けがを負ってしまいます。新政府軍の攻撃が強まり長岡城は焼け落ち、継之助も会津へ逃げる途中で亡くなりました。
ガトリング砲(複製) 河井継之助記念館所蔵
Q.なぜ今も注目されているの?
A. 継之助は、日本の歴史を大きく変えたわけではありません。でも、どんなに偉い人を相手にしても、自分が正しいと思う道を貫いたことに、多くの人が心を打たれました。
相手がどんなに強くても間違っていることには立ち向かう
ただ言われた通りにするのではなく、自分で考え、正しい行動する
継之助の生き方から、今を生きる私たちも、難しいことに立ち向かうためのヒントをもらえるかもしれません。
長岡市の河井継之助の生まれた家があった場所にある河井継之助記念館
【取材協力】
河井継之助記念館
長岡市長町1丁目甲1675-1
長岡中央図書館
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