新潟の地域文化を紡ぎ繋げる 新潟文化物語

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file-135 まずは、一服。新潟ならではの茶道を体感(後編)

  

茶道は、過去と今を紡ぐ道
そして、未来へと思いをはせる茶人たち


 江戸時代、新潟県はいくつかの藩に分かれており、新発田藩、長岡藩、高田藩の藩主がそれぞれ石州流(せきしゅうりゅう)、宗徧流(そうへんりゅう)、不白流(ふはくりゅう)を江戸から持ってきました。新潟に根ざす茶道は現代の茶人にどのように受け継がれ、未来に向かっていくのでしょうか。

茶道の心を脈々と伝える茶人たち

400年、変わらぬ殿様直伝の作法~石州流越後怡渓派

国指定名勝 五十公野御茶屋

新発田藩主溝口家の別邸であり、茶寮として使われた。庭は清水園と同じく縣宗知による。普段は重臣にも開放して茶会を催した。/国指定名勝 五十公野御茶屋

 新発田藩では、4代藩主の溝口重雄(みぞぐちしげかつ)公(1633-1708)が、石州流の高弟である怡渓宗悦(いけいそうえつ)の教えを受けて石州流を新発田にもたらしました。さらに時代を経て10代藩主の直諒(なおあき)公(1799-1858)が、宗悦の流れを汲む阿部休巴(あべきゅうは)から奥義を授かり、新しい流派である越後怡渓派を立ち上げました。茶道流派のほとんどが世襲による家元制ですが、石州流は師から弟子へと伝授することができ、そのため現在も多くの流派に分かれています。直諒公は、藩の茶道職であった藤田又太夫(ふじたまただゆう)に自ら作法を教える腕前で、茶人としては「翠涛(すいとう)」を名乗っていました。その後、又太夫も直諒公より奥義を賜りました。

 

内田さん 高松さん

「高校を出てからも『お茶を続けたい』と通ってくれる子がいます。うれしいですね。お茶も、お菓子も好きで、一服で帰る人はまずいない。おうちで、ちゃんと急須で飲んできた子はお茶が好きですね」/内田さん(写真・左)

「お茶を飲むことが好きですね。あとは、人との出会い。私は口下手ですが、茶道なら話さなくても同席すると通じ合えます」/高松さん(写真・右)

「自ら奥義(真台子・しんだいす)を与えたお殿様は聞いたことがありません」と言うのは、石州流越後怡渓派茶道翠涛会師範の内田恭翠さんです。明治維新によってお城の仕組みそのものが解体しましたが、藤田又太夫から受け継がれてきた茶道は、明治27年(1894)から県立新発田高等女学校の茶道教授をしていた、初代方寸庵 青木維三郎により、市民のお茶へと広がっていったのです。大正7年(1918)、青木維三郎先生が溝口家12代目に伺い、直諒公のお茶名であった翠涛を使わせてほしいと願い出て「茶道翠涛会」を発足させました。会の方針は、殿様直伝の昔からある伝書を崩さずに、作法や所作を伝えていくこと。内田さんは、「石州流にもいろいろな派がありますが、400年以上も形を崩さずに守っているところはめずらしく、年一回の全国大会でもみなさんが驚きます」と言います。お作法は他流派に比べると非常にシンプルで無駄がない。派手さがなく飾らないだけに、逆に難しく、所作そのものの美しさが際立つといいます。

 

 内田さんの教え子だったのが高松利翠さんです。「初めてお茶に触れたのは新発田農業高校の茶道クラブ。親戚に茶道の先生がいて家に茶道具があり、高校で入部したら内田先生でした」と言います。内田さんは昭和40年(1965)頃から頼まれてクラブの指導をしています。最近は生活様式も変わり、正座ができない生徒もいるそうで、まず5分間我慢して座ることから始めます。高松さんの庵にも中学1年生が授業でやって来ます。「生徒たちは見たことも、飲んだこともない。私が出したもの、自分たちで点てたものにどう違いがあるのかを感じてもらいます。お茶は苦いという先入観がありますが、実際に飲むとおいしかった!と言ってくれます」

 

寺町たまり駅

溝口公が新発田藩主として入封したとき、出身の大聖寺(現・石川県加賀市)より菓子職人を伴った。材料である農作物の豊かさと相まって和菓子文化が醸成された。「寺町たまり駅」では日替わりでお茶と菓子をいただける。

 翠涛会では今後も直諒公時代からの作法を守り、後進を育てていきたいと考えています。主な活動は、毎年 4月29日に清水園で直諒公を偲ぶ「翠涛茶会」の開催と、6月の「あやめ茶会」、10月の「新発田市民茶会」と「市島邸 菊月(きくづき)茶会」への参加です。「新発田市には、国指定名勝の清水園や五十公野御茶屋が残っており本当にありがたいです。殿様たちがお茶をやって来た場所で、殿様直伝の作法で茶会を開けます。その景色の中で気軽にお茶を楽しんでください。まずは、一服。それが始まりです」
国指定名勝 清水園

重雄公が江戸幕府の庭方であった縣宗知(あがたそうち)を招いて築庭した。昭和20年代に柏崎市出身の庭師である田中泰阿弥(たなかたいあみ)が荒廃した同園を修復。全国的にも高い評価を得ている名園。/国指定名勝 清水園

 

茶道を次代につなぐ「越後大茶会 in アオーレ長岡」

 令和2年(2020)7月19日、アオーレ長岡アリーナで「越後大茶会」が開催されます。イメージは、天正15年(1587)に秀吉が、京都北野天満宮で開いた北野大茶湯。流派も、身分も、国籍も関係なく参加でき、服装も自由だったと言います。越後大茶会も県内各地から様々な流派をはじめ、烏龍茶や村上茶など、多彩なお茶が集まって野点(のだて)をします。主催は長岡市茶道文化協会。茶道を気軽に親しんでもらい、コミュニティーを活性化させ、文化の伝承をして行くことを目的に、平成29年(2017)に発足しました。

 

今さん

「今後も全県から集まる方々で越後大茶会を開き、長岡市外でも持ち回りでやりたい。参加をご希望の方はお気軽にご連絡ください」/今さん

「茶道が本来持つ“おもてなしの心”に立ち返り、作法抜きで一服召し上がっていただけます。地域を超えて、ありとあらゆる垣根を取っ払いたい。お茶をやっている、いないに関わらず、アオーレに遊びに来てください!」と同協会企画委員長の今千春さんは言います。今さんは陶芸家であり、男子たちによる「四天王茶会」も開いています。

 

西脇さん

「お茶室独特のすがすがしいもてなしが好きです。何気ない道端の一輪を飾り、花咲く瞬間を共有するような、今にないコミュニケーション。この人のために何ができるのか、お金で買えない貴重で尊い時間を創り出す。心配りがなければできない作業です」/西脇さん

 協会の設立に尽力した事務局長の西脇美智子さん。その前職は、朝日酒造の文化事業担当部長でした。同社内には茶道部があり、創立者が建てた国の重要文化財「松籟閣(しょうらいかく)」も有しています。「敷居が高いと思われがちな文化財ですが、せっかく残すなら地域のみなさんに使って楽しんでいただきたい」と、西脇さんの企画で平成14年(2002)に初めて松籟閣で茶会を催しました。長岡市は宗徧流という茶道流派が盛んな地で、全国の支部の中でも最も多い1000人もの門人がいました。しかし、師匠が引退すると弟子もやめてしまい、この十数年で半減してしまいました。西脇さんはお茶人口の減少にさびしさを感じ、長岡市に相談。有志とともに同協会を立ち上げたのです。「船出をしたばかりですが、志のある方を核にして広げていきたい。お客さんがいらしたら、まずはお茶を一杯と出す文化を残していきたい」と言います。

 

和田さん

「戦争でまちが焼けた長岡から世界へ、平和の象徴である茶の文化を発信することは意義深いと思います。茶道だけではなく、最終的には日本の伝統文化を継承していく場所が長岡にできて欲しい」/和田さん

 同協会会長、和田裕さんの本職は長岡造形大学の学長です。その観点からも「未来を担う長岡の若者に、世界に誇る日本の伝統文化を理解し、継承してもらいたい」と願っています。「その足がかりとして日本芸術のエッセンスが集約された茶道文化の普及から始めようと考えました。茶道はよく“総合芸術”と言われ、作法や茶器のほかに庭園・建築・絵画・書・花・衣・食など多様な分野で構成されています。名称に“長岡市”と付いていますが、活動の場や流派も長岡市内にこだわっていません」と言います。

 

 江戸時代に長岡藩主であった牧野家では、9代藩主忠精(ただきよ)公が江戸から宗徧流を持ってきて以来、代々に受け継がれています。今を生きる17代目も嗜んでおり、越後大茶会では中心となって茶席を設けます。開催場所のアオーレ長岡は長岡城の跡地ですから、時代を超えて、殿様がお城でお茶を点てることになる。何と粋な趣向でしょう。茶道に触れる絶好のチャンスです。経験がない人ほど出かけてみてはいかがでしょうか。

 

※越後大茶会
・開催日時/令和2年(2020)7月19日(日)午前9時30分〜午後4時30分まで
・開催場所/シティホールプラザ アオーレ長岡 アリーナ(長岡市大手通1丁目4-10)

 

流派は途絶えても人々の中に脈々と生きる〜高田伝来の不白流

加藤さん

「地元のお茶が語り継がれるように、膨大な資料から史実を探っています」/加藤さん

「この十数年で、不白流に関わった茶人がほとんど亡くなってしまいました。幸い本が残っていて、私の祖父にも聞いた話があるので何とか伝えられます」と言うのは、上越市で美術商を営む加藤裕明さんです。高田藩の茶頭であった荒井宗二(あらいそうに)は、江戸で茶道を広めた川上不白(1719-1807)の流れを汲む茶人です。不白という人物は、利休の血筋を汲む表千家7代目如心斎(じょしんさい)の高弟で奥義を伝授されました。如心斎の命で京都から江戸に出て、千家の茶の湯の普及に努めました。没後の明治時代、川上家により江戸千家が確立すると流祖と称されました。江戸千家は不白流の本流ですが、宗二経由で高田に伝わった不白流は別系統。正式名称が不明のために加藤さんは「高田伝来の不白流」と称しています。

 

 明治維新を迎えると藩が解体し、職を失った宗二は茶道の指導者として住んでいた東京から高田に移り、地元の高田や直江津など頸城地域をはじめ、柏崎、長岡、新潟まで教えに出向いて多くの弟子を抱えました。許状を出せる家元格の指導者は、宗二から三上宗心―清水宗観―荻野宗次―三上ハツへと引き継がれました。しかし、家元格を譲られたハツが継承しないまま昭和24年(1949)に亡くなり、同時に高田伝来の不白流も絶えてしまいました。ハツの師であった宗次がまだ存命でしたが、中央に家元がない流派を地方で続ける重責に葛藤した末、不白流の大本であった表千家への流派替えを決めました。

 

 そこに新しい光が入ります。高田に疎開した写真家濱谷浩(はまやひろし)の妻、宗朝(そうちょう)が東京池之端の江戸千家家元の直門(じきもん)だったのです。家元から認められて「江戸千家新潟県支部」と濱谷家に看板を掲げました。これにより、不白が江戸で広めた江戸千家という本流が高田に流れることになりました。濱谷家が高田を去ると、宗朝の弟子であった小川草雪(おがわそうせつ)が江戸千家の中心人物となります。高田でも賑わいのある本町商店街の紙店の夫人で、そこに庵を持ったことで弟子が増えました。また、出稽古も積極的に行って茶道を多くの人に広げていきました。昭和36年(1961)には「江戸千家不白会高田支部(高田不白会)」を発足して初代支部長になります。実は、草雪は幼少の頃に三上宗心と清水宗観から高田伝来の不白流を習っていました。仕事や戦争などからお茶を習うのを一時やめて、それから宗朝の弟子になりました。

 

「宗朝さんのおかげで江戸千家という不白の本流が入り、草雪さんのように高田と江戸の両方を身に付けたミックスが何人かいました。高田伝来の不白流はもうありませんが、人々の中に脈々と生きることになったのです。茶道の楽しさは、五感を使うところです。スマホは目や指だけですが、道具を触り、お茶やお菓子をいただき、感覚をフルに活用する。障がいがある方でもお茶を点てて差し上げるととても喜んで感じてくださる。趣味は多様化していますが、茶道はとても良いものです」と加藤さんは言います。

 

高田伝来の不白流を語る上で欠かせない茶人たち

●荒井宗二(1842-1905)
父も同名でやはり高田藩主榊原家の茶頭であった。文中の宗二は2代目となる。宗二は普通、「そうじ」と読むが、清水宗観や弟子であった加藤さんの祖父良作さんは「そうに」と呼んでいた。

●如心斎(1705-1751)
表千家中興の祖であり、現在の家元制度の基盤を築き上げた。茶道人口の増加とともに遊芸化する傾向を懸念して「七事式」という新しい稽古方法を考案。家元に伝来する道具への極め書きも始めた。

●三上宗心(1844-1919)
明治大正時代の上越の大茶人。多くの弟子がいた。

●清水宗観(1869-1944)
大正から戦前の大茶人。弟子の中には加藤良作のほか、柏崎市に茶道具のコレクションを寄付した木村寒香庵(かんこうあん)重義もいた。

●荻野宗次(1892-1989)
直江津のいかや旅館(のちホテルセンチュリーイカヤとなる)主人。昭和38年(1963)に協力者とともに「表千家同門会新潟県支部」を発足。

●加藤良作(1914-2017)
裕明さんの祖父。茶道具を扱っていた父から商売を譲り受ける。宗次にも習い「いかやさんに稽古(けいこ)に通った」と言っていた。「表千家同門会新潟県支部」の発足に協力。

 

 新潟には新潟らしい茶道の歴史があり、それを未来へと紡いでいこうとする茶人がいました。畳がない家も多くなりましたが、まずは、一杯。心が豊かになる茶道の世界に触れてみてはいかがでしょうか。

 

掲載日:2020/3/26

 

■ 取材協力
寸真庵 内田 恭翠さん/新発田藩茶道石州流越後怡渓派茶道翠涛会
寸松庵 高松 利翠さん/新発田藩茶道石州流越後怡渓派茶道翠涛会
加藤 裕明さん/有限会社遊心堂

和田 裕さん/長岡市茶道文化協会 会長
西脇 美智子さん/長岡市茶道文化協会 事務局長
今 千春さん/長岡市茶道文化協会 企画委員長
※問い合わせ:長岡市生涯学習文化課内長岡市茶道文化協会事務局 電話:0258-32-5110

■ 参考資料
アートサロン遊心堂ホームページ「郷土上越の茶道」

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