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file-153 時代を貫く。大倉喜八郎の志(前編)

  

実業家が建てた特別仕様の建物


 外観は伝統的な和風建築ですが、一歩入れば、日本の美術や工芸の技が尽くされた雅やかな大空間。明治時代に東京・向島に建築され、私邸ながら孫文や渋沢栄一ら国内外の要人が訪れた「蔵春閣(ぞうしゅんかく)」が、建築主・大倉喜八郎の故郷、新発田市に移築されます。

まるで美術館のような迎賓館

明治宮殿の建築様式を継ぐ

蔵春閣外観

平成24年(2012)、解体前に撮影された「蔵春閣」。大きな入母屋(いりもや)屋根に覆われた荘厳な日本建築。一般的な家屋より天井が高く、そびえたつような圧倒的な存在感を放つ。/撮影:写真家 岩﨑和雄

1階食堂(上の写真)

1階にある二間続きの食堂は、格式の高い天井や欄間、狩野探幽や谷文晁が描いたと伝わる襖絵などで飾られている。木製の開き戸は明治宮殿様式を引き継いだ。/撮影:写真家 岩﨑和雄

 「蔵春閣」は、明治45年(1912)に、東京・向島(現・東京都墨田区)の隅田川のほとりに建てられた、おもてなしのための別邸、いわば迎賓館です。かつて皇居にあった明治宮殿の建築様式を引き継いで造られました。
 海外からもお客様を招くので、1階の食堂2室は寄木造の床でイスとテーブルを配置していますが、装飾はすべて日本風です。極彩色で鳳凰(ほうおう)を描いた格式の高い格天井(ごうてんじょう)、高野山や徳川家伝来の欄間(らんま)などで飾られています。2階では、打って変わって三十三畳の大広間が主役です。それに面して大理石モザイクを敷き詰めた広い廊下があり、食事後に芸妓の舞を見たり、隅田川を眺めながらお茶やタバコを楽しんだりする趣向になっています。
 この建物は、意匠だけでなく、建築方法も特別仕様。「木曽本木」のヒノキなど選びぬかれた木材を用い、当時としては画期的なボルト締めなどを駆使し、堅牢に建てられました。その強さは、関東大震災時にも被害はなく、救護所として被災者を受け入れたことからも明らかです。設計に1年、施工に4年をかけた「蔵春閣」には、明治の日本を創った偉人たちや各国の大使や高官など多くの人々が集いました。

 

建築主は200社を立ち上げた実業家

モザイク

2階の廊下には、隅田川にちなんで都鳥と桜の花をデザインしたモザイクを敷き詰めた。ここにイスと小卓を置き、食後のお茶やタバコを楽しむスペースに。/撮影:写真家 岩﨑和雄

胸像

JR新発田駅前の東公園にある喜八郎の銅像。もともとは全身像だったが、第二次世界大戦中の金属供出のため胸から下を失い、戦後、胸像として改めて建立された。

 「蔵春閣は、よほど普通の建物とは異なったところがある」と言った、こだわりの建築主は大倉喜八郎。92年の生涯で、大成建設、サッポロビール、日清オイリオ、リーガルコーポレーションなど約200社の企業を立ち上げた、新発田出身の実業家です。
 喜八郎について調査・研究し、定期的に新発田市で講演会・研修会を開催して業績の顕彰を行っている「大倉喜八郎の会」の坂井正さんに、喜八郎の足跡について伺いました。
 「喜八郎は天保8年(1837)に新発田藩の商家の三男として生まれました。18歳で江戸に出ると、持ち前の先見性と大胆な決断力、いわばベンチャー精神を発揮し、建設・化学・製鉄・繊維・食品など様々な分野で次々と会社を興しました」
 新一万円札の顔、渋沢栄一は同じ時代を駆け抜けた盟友。ともに東京商法会議所(現・東京商工会議所)の発起人を務めたほか、協力して帝国ホテルや東京ガスの設立にも力を尽くしました。
 晩年には中国大陸へも進出して合弁事業を手がけたので、「蔵春閣」には中国の要人たちも招かれました。

 

郷土愛が移築事業を後押し

記念冊子の表紙

「大倉喜八郎の会」設立15周年を記念し、喜八郎の足跡と資料・写真をまとめた記念誌。

大倉製糸工場の外観
大倉製糸工場の外観

新発田に農業以外の産業が育たないことを憂えた喜八郎は、私財を投じて大倉製糸工場を創立。最盛期には666人の女性が働いた。跡地には現在、新潟県立新発田病院が建つ。/大倉文化財団提供

 建築から100年を経た平成24年(2012)、移築を前提に「蔵春閣」は解体され、大倉文化財団に託されました。大倉文化財団とは、大正6年(1917)に喜八郎が設立した美術館・大倉集古館を運営する公益財団法人です。移築に際しては、新発田市のほか、喜八郎にゆかりのある大学やホテルなどが手を挙げましたが、財団は新発田市に決定しました。「何より喜八郎の故郷であることが決め手になったのだと思います」と坂井さん。
 上水道建設費の寄付、諏訪神社へ大鳥居の寄進、雇用創出のための大倉製糸工場創立など、喜八郎は新発田にも多大な貢献を果たしました。「故郷への思いは強かったのだと思います。移築場所の東公園もかつて喜八郎が市に整備費用を寄付して作られたもので、そこには喜八郎の功績を讃えるために記念碑や墓銘碑が並んでいます。これ以上の場所はないでしょう。まさに里帰りです。この移築をきっかけにさらに喜八郎の存在のアピールに努めたいと思います」。明治から令和へと時代を超え、喜八郎の思いが故郷・新発田に届きました。
 後編では、実業家のもう一つの顔、文化人としての喜八郎に注目します。

 

二階大広間

「蔵春閣」2階の大広間は、豊臣秀吉が建てた桃山御殿を模した様式。一段上げた舞台では芸妓が舞を披露した。八角形と四角形を組み合わせた格天井は豪華絢爛。/撮影:写真家 岩﨑和雄

 

掲載日:2022/3/7

 

■ 取材協力
坂井正さん/大倉喜八郎の会 会長

 

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後編 → file-153 時代を貫く。大倉喜八郎の志(後編)
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