200年余の歴史を誇る古町花柳界。古くから全国にその名を知られた古町芸妓は、特に踊りや唄、三味線などの芸の修業の厳しさと、その熱心さで知られていました。

 その精神は今も受け継がれ、年に一度、毎年9月に開かれる「ふるまち新潟をどり」で、芸妓衆が磨き上げた芸を舞台で見ることができます。

 この至高の芸を支え、芸妓たちの心の支えとなっているのが、市山流7代目宗家・市山七十郎(いちやまなそろう)さん。「お師匠さん」と古町芸妓衆の誰もが敬い、家族以上に大切にしている存在です。その市山さんに、市山流と古町花柳界、そして古町芸妓について伺いました。

市山流七代目宗家・市山七十郎さん。平成6年(1994)、「うしろ面」で文化庁芸術祭賞受賞。平成15年(2003)、市山流が新潟市無形文化財第1号に認定。平成30年(2018)、市山七十郎を襲名。令和5年(2023)、日本舞踊の国重要無形文化財指定により、新潟県初の国重要無形文化財保持者に認定。市山流7代目として歌舞伎の世界で指導も行っています。

—日本舞踊の宗家が、京都や東京ではなく地方都市にあり、しかもひとつの花柳界と強い絆で結ばれ、長く歴史を刻んできた流派は日本で市山流が唯一だとお聞きました。

市山 どの花柳界も、藤間流や花柳流など何流派もあるのが普通ですから、地方でひとつの花柳界がここまで続き、しかもひとつの流派とともに古町花柳界が続いているのは、確かに珍しいことかもしれません。京都・祇園の井上流さんの例もありますが、市山流の3代目が古町に拠点を置いてから、もう200年以上になりますから。新潟の方が長いかもしれませんね。

稽古場の壁にずらりと掛かっていた歴代のお弟子さんである名取りの札

—初代は江戸時代、歌舞伎俳優から振付師に転じた市山七十郎(いちやましちじゅうろう)。当時、市山流の指南(しなん)を受けぬ大坂の歌舞伎俳優はほとんどいなかったと聞きます。お師匠さんは7代目として今も歌舞伎の世界で指導もされています。日本舞踊は多くの流派がありますが、市山流の特徴というと。

市山 大坂、つまり上方(かみがた)から始まり、歌舞伎の流れをくんでいること。ですから、役柄の気持ちというものを一番大事にします。ただ単にきれいに踊るだけではなく、役柄の性根や心情を理解して踊る。4代目は、それを「肚(はら)から出る芸」と言いましたが、私の母である6代目もそこを一番大事にしていました。お稽古で、私が一番うるさく言うのもそこですね。

—役柄の性根を大切にするといいますと。

市山 本当にその役柄の心情を理解して踊ると、目線や動きも自然と決まってきますし、こまやかな動きひとつで、「あ、今、桜が散ったんだな」という情景や、心の動きまでお客様に伝わりますから。例えば「鷺娘(さぎむすめ)」は、鷺のすっと細く美しい姿を見せるところから始まり、最後は地獄に落ちて責められる物語ですから、きれいに踊るだけではいけない。初代が振り付けた「うしろ面(めん)」は、子どもにいじめられる狐が、どうして私は人間に生まれてこなかったんだろうという葛藤がある。今の若い妓(こ)たちは、演目の物語までは分からないので、最初に解釈を説明してからお稽古します。

—年に一度、古町芸妓が総出演する「ふるまち新潟をどり」は先代が始められた公演。舞台とお座敷では、踊り方も違いますか。

市山 やはり違いますよね。例えば「相川音頭(あいかわおんど)」は、舞台でもお座敷でもやりますが、広さによって踊りの歩幅も変わりますし、お客様から見える形も違ってきます。広いお座敷と小さいお座敷でも違いますし、目の前にお客様がいる場合は手を流す形もこれくらいにしなきゃ、というのもあります。けれど、踊るときの心や気持ちは同じでなくてはいけません。演じる側は会場の大きさは意識しますが、演じることに対しての心持ちは変わりません。むしろお客様の方が違うんじゃないでしょうか。舞台で見るのと、お座敷で目の前で見るとでは。

—そうですね。

市山 よく芸妓さんたちに言うのは、例えば「新潟おけさ」のように、毎日のようにお座敷で踊る演目の方が形が崩れやすいんだよと。同じことをやっていると、やる方も人間ですから、飽きることもある。でも、お客さまは毎日変わりますし、初めて見る方もいる。だから絶対に手を抜いちゃいけない。毎日のように踊っていると、自分の動きやすい踊り方になりがちで、それによって形が崩れてしまうので、時々お稽古で叱るんです。私はお座敷は行きませんが、入ったばかりの振袖さんのお稽古で、ああ、上の妓たちはお座敷で今、こういう踊り方をしているなと分かる。上の妓たちと一緒に踊ると、悪いところだけ真似るんですね。だから「そんな踊り方をしていると新しい妓がそれで覚えちゃうんだよ」と、上の妓に言うんです。

6代目が平成元年(1989)に誕生させた「ふるまち新潟をどり」のパンフレットの数々。お座敷でしか味わえなかった古町芸妓の芸を舞台で誰もが楽しめるようにしたその功績は大きいといわれます。年に一度、古町芸妓が総出演して毎年9月に開かれています。

昭和10年(1935)、古町花街の総力を結集して行われた「船江をどり」の冊子。11月7日から4日間にわたり、芸妓200余名が総出演し、舞踊をはじめ、長唄、小唄、清元、義太夫と新潟花柳界の芸の修業の成果を披露したといいます。現在の「ふるまち新潟をどり」の祖ともいえるもの。

—市山流のお稽古は厳しいことでも有名ですが、踊り以外にも、伝統的に礼儀やお行儀、特に「礼を尽くす」ことに対してとても厳しいと聞きました。

市山 4代目は相当厳しかったようですね。京都の井上流の井上八千代(いのうえやちよ)さんと名古屋の西川流の西川石松(にしかわいしまつ)さんとで、「芸に厳しい三婆(さんばば)」と呼ばれたくらいですから(笑)。今は時代も違いますから、それほどではないと思いますよ。

—跡継ぎとして、先代のお稽古は厳しかったですか。

市山 いえいえ。踊りの家に生まれた子はあらためて教えてなんてもらえません。誰かがお稽古をしているときに見て覚えるか、後ろで立って見て覚えるか。「門前の小僧習わぬ経を読む」です。私もそうですし、祖母も母もそうだったでしょう。ビデオもテープもない時代ですしね。
 祖母も母も、自分で三味線を弾いて唄いながら教えていました。芸妓さんがたくさんいた頃は、2階の稽古場を半分に分けて、祖母と母、それぞれ違うものを教えて「そこ、違う!」なんて怒鳴ったり(笑)。この狭さでよくできたなと思いますが、古い芸妓さんに聞くと、隣のお稽古の音なんて全く耳に入ってこなかったそうです。「それだけ集中してたんだよね」と言っていましたから。

先代の手で「満4歳1カ月とは思えない生意気な形を見てください」とアルバムに書かれた7代目の写真。昭和27年10月25日宝塚劇場で開かれた「第23回研踊会」の写真

—古典を大切に守るのも市山流の特徴。演目はいくつあるのでしょう。

市山 うちも長いので、私もいくつあるか分からないんですが、例えば、初代七十郎が振り付けた「越後獅子(えちごじし)」や「春調娘七種(はるのしらべむすめななぐさ)」「うしろ面」など、他の流派にないものがほとんどです。今の時代もうやらないもの、お蔵入りになったものもありますしね。何でもそうですが、残っていくものと消えていくものがありますし、お芝居と同じように、復活する演目もありますから。それでも古い演目を、若い芸妓たちが少しでも覚えて残していってくれるのは、やはり嬉しいですね。

—古町花柳界と市山流は、芸を通して長い歴史をずっとともに歩んでこられた。

市山 花柳界と市山流とは、どちらかが倒れたら共倒れになってしまうのではと思うほど、親密というか、師匠と弟子というより、もっと深いところで身内のような気持ちがあるんですね。芸妓さんたちも、よそでは言えないことも、ここでなら言える。だから、嬉しいことや辛いことがあると、よく来ていましたね。
 まだ先代が存命の頃ですが、この近くで火事が出たとき、お座敷に出ていた芸妓さんたちが、お客さんを置いて駆けつけてくれて。お座敷姿のまま、引き出しから何から全部手分けして、担いで持ち出してくれて、「火事場泥棒もあるからお師匠さんの家に男の人は入れない」と、男の人たちが手伝いに来ても、芸妓衆がバリケードを作って絶対入れなかったんですよ。でも荷物を持ち出したはいいけれど、翌日は重くて持って来れないの(笑)。火事場のばか力って本当にあるんだね、なんてみんなで笑ってましたけどね。

ー本当に家族のようですね。

市山 もちろん市山流のことも大事ですが、私は古町花柳界がもう少し華やかになって、もっと多くの方にお座敷に来てもらえたらなと思っているんです。「新潟をどり」は一般の方も気軽に見に来ていただけますし、それをきっかけに古町花柳界にも興味をもってもらえたら嬉しいですね。

 

古町芸妓とともに芸に生きる市山流の歴史

築150年以上という市山流宗家自宅兼稽古場。市山流の踊りに惚れ込んだお歴々が、4代目が踊りの指導に打ち込めるよう、花柳界の中心である古町9番町に建てたといいます。2階にある稽古場の一段高い舞台には、稽古で付いたという無数の傷があります。「戦時中は燃料用として軍隊に没収されないよう、弟子たちと板を外してリヤカーで運んで守ったそうですよ。」とお師匠さん。

 日本舞踊・市山流が生まれたのは江戸時代中期。大阪の歌舞伎俳優・市山助五郎(いちやますけごろう・元禄5年(1692)〜延享4年(1747))の弟子で、舞踊が堪能であった市山七十郎(生没年不詳)が市山流を樹立し、当時、大坂の歌舞伎俳優で市山流の指南を受けぬ者はほとんどいなかったといわれています。

 七十郎には2人の子どもがおり、兄は歌舞伎俳優から狂言作者になった初代瀬川如皐(せがわじょこう・元文4年(1739)〜寛政6年(1794))。弟は一世を風靡した女形の瀬川菊之丞(せがわきくのじょう・宝暦元年(1751)〜文化7年(1810))。兄弟で大阪から江戸へ下り、江戸でも名を揚げています。

 市山流と新潟との縁ができたのは江戸時代後期。舞踊堪能な歌舞伎俳優だった3代目岩井仲助(いわいなかすけ・文化13年(1816)〜明治8年(1875))が晩年、新潟を訪れたことがきっかけでした。当時の新潟は西回り海運の寄港地で、古町花柳界の繁栄ぶりは全国に知られていました。その華やかな様子は昭和8年(1933)発行の「新潟古老雑話」の中でも紹介されています。江戸末期、白山神社の祭礼があった3月18日には古町芸妓が競うように美しい着物姿で参詣する風習があり、その豪華な衣装や髪飾りを見ようと遠方からも多くの見物人が集まったと記されています。

 4代目(弘化4年(1846)〜大正7年(1918))からは代々女性が宗家を受け継ぎます。4代目は宇都宮の藩士・川田新左衛門(かわだしんざえもん)の長女として新潟・本町通で生また川田トシ。幼少の頃から踊りの天才といわれたトシは、3代目から後継者として指導を受け、加賀藩の舞の指南役として「喜屋(きおく)」の名で御殿奉公にもあがり、その後、新潟に戻って市山流4代目を襲名しています。

 4代目が弟子に厳しく指導したのは「肚から出る芸」つまり心情を重んじる芸で、その厳しい稽古は業界でもよく知られるところでした。晩年には京都の京舞井上流家元の井上八千代、名古屋の西川流家元・西川石松とともに、芸に厳しい「三婆」として畏怖畏敬された話は有名です。この4代目は歌舞伎俳優の4代目中村芝翫(なかむらしかん)や5代目中村歌右衛門(なかむらうたえもん)、初代市川左団次(いしかわさだんじ)など歌舞伎界との交流も深めました。

大正7年(1918)8月の4代目葬儀の様子がハガキとなり残っていました。西堀に師匠を悼む芸妓の列が延々と続き、4代目がどれほど古町芸妓衆に慕われていたかがうかがえます。当時は祇園、新橋とともに古町が日本三大花街と称され、300人もの芸妓がいたといいます。

 5代目は、4代目の孫の川田亀(かわだかめ)。娘のいねは南画の道に進んだため、亀は幼い頃から祖母である4代目に踊りを仕込まれ、若い頃には「舞踊家は舞台経験が必要だ」と女優としても活躍。その亀の妹が日本で最初の映画女優・川田芳子(かわだよしこ)です。二人がともに舞台に立つ写真も残っています。

5代目と、妹で女優の川田芳子(右)が共演したときの1枚

 5代目以降、市山七十郎の名は母から娘へと受け継がれ、現在は7代目。芸に厳しくとも、お弟子さん思いだったという代々の姿勢は、市山流の芸とともに今もしっかりと受け継がれています。

5代、6代、7代の3代が「ことぶき笠地蔵」で共演したときの貴重な写真。中央が7代目。昭和38年(1963)、5月に新潟宝塚劇場で行われた「五世七十郎芸道六十年記念公演」にて。

 

※本特集では、流派伝統の教えを忠実に表現するため一部常用漢字外を用いています。

参考文献/

鏡淵九六郎『新潟古老雑話』(新潟温古會、1933)
平山敏雄『新潟芸妓の世界』(新潟日報事業社、1973)
藤村誠『新潟の花街』(新潟日報事業社、2011)
湊町新潟に伝承する文化芸能の歴史的資料編纂事業委員会『湊町新潟に伝承する文化芸能の歴史的資料』(財団法人東日本鉄道文化財団、2009)

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