わが国で「石油」が初めて歴史に登場したのは、今からおよそ1400年前の天智天皇7年(668)のことです。『日本書紀』によれば、この年「越の国から燃ゆる土、燃ゆる水が献上された」といいます。
献上地については、蒲原郡、三島郡、刈羽郡と諸説あり、はっきりしてはいませんが、この地金津地域には、堀出神社をはじめ、数多くの石油にまつわる史跡、文献が残されており、世界的にみても、早くから石油採掘業が存在していた地域として知られています。
越後国蒲原郡金津村の地主であった中野家は、文化元年(1804)庄屋、坂井瀬兵衛が鵜の森(現 加茂市)に転居する際、貫一翁の曽祖父、次郎左衛門が庄屋職を継ぎ、さらに草生水油(石油)採取権を190両で買い受け、「泉舎」と号して、いわゆる「草生水油稼人」を業とするようになりました。そして以後、柄目木の真柄家、とともに金津の中野家が新津油田の採掘権を握り、中心的役割を担うこととなったのです。
貫一翁は弘化3年(1846)に生まれ、14歳にして父を亡くすと、庄屋と泉舎を引き継ぐこととなりました。明治6年(1873)「日本抗法」が公布されるや直ちに、新潟県庁に石油試掘を出願し、許可を得て、翌7年(翁28歳)9月、自分の所有地内に草生水場を開抗して若干の出油に成功しましたが、それも束の間その後の試掘は失敗の連続でした。そのため家産は傾き、親類、知己の多くは、あてもない冒険事業をやめるように忠告しましたが翁は初心を捨てず、ついに最初の試掘から29年目の明治36年(1903)、はじめて商業規模の油田を掘り当て、金津油田(新津油田の一部)開発の端を開いたのです。
それ以来事業は順調に進歩し、当時の二大石油会社であった日本石油及び宝田石油に次ぐ大三油業者に成長した寛一翁は、日本の「石油王」と呼ばれるまでに至ったのです。
出典:
『中野邸美術館提供資料』
提供元:中野邸美術館