板碑は、鎌倉時代から室町時代にかけて、先祖の追善や生前に後世の幸せを願う逆修の供養を目的として造立された板石塔婆のことである。江戸時代に盛んに造られた供養塔や講塔とは、似ているものの全く違った意味を持っている。
粟島に板碑が造られた背景には、遊行僧によって死後の霊魂は海の彼方の西方浄土へ旅立ち、仏陀のいる極楽浄土で再び生まれ変われると教えられた。そのために、黄金色の夕日の中に浮かぶ粟島がその極楽浄土への入り口と見なされ、一時期集中的に板碑が造立されたと言われている。
島の板碑は、島の40~60cm大の自然石の平坦面を利用して特定の梵字種子等が刻まれており、仏尊の混合組み合わせや名号、五輪図を表したものなど26種を数える。
内浦地区の観音寺周辺を中心にし、現在142基が確認されており、県下でも最密集地となっている。
ここの特徴として、梵字名号板碑が3基、仏尊種子に施与「ダ」が付いた板碑が28基、釈迦三尊の金箔板碑が1基、それに多様な地蔵種子と荘厳体種子の板碑などが多く残っていることである。
梵字名号板碑は文和三年の紀年銘があり、梵字名号板碑の在名では全国で三番目に古いものであり、仏尊種子に施与「ダ」が付いた板碑は全国最多である。
また、金箔板碑は全国でも最古の板碑と考えられており、文和3年(1354)の記年が銘されている。石造遺物群として新潟県有形文化財(考古資料)に一括指定された。南北朝初期のものと推定され、全国的にも最古と考えられている。板碑のほか、阿弥陀磧石仏、宝篋印塔、八幡石神像などがあり、いずれも時代相から見て板碑とおよそ同年代の造立と考えられる。
出典:
『粟島(観光ガイド)』
提供元:粟島観光案内所粟島観光協会