file-106 金・銀山の島―佐渡のキリシタン(前編)
小説『黄金と十字架―佐渡に渡った切支丹』の舞台をたずねる
ゴールドラッシュに湧いた江戸時代の佐渡に、禁教令の後もキリシタンが存在していたことをご存じですか。信徒や外国人宣教師(神父)の来島、宗門(しゅうもん)調べ、さらに島原の乱のあった年の1637年には、信徒が処刑されるという悲劇もあったと伝えられています。県内在住者の自費出版図書を対象に、昨年度開催された第9回新潟出版文化賞優秀賞受賞作品『黄金と十字架―佐渡に渡った切支丹』には、これまであまり語られなかった、佐渡のキリシタンが描かれています。その小説の舞台を巡りながら、歴史のなかに見え隠れするキリシタンの痕跡をたどります。
尖閣湾から金山へ。主人公を追って。
佐渡島内の7つの指定海水浴場のひとつ、達者海岸は尖閣湾の一画にある。
佐渡北西部の尖閣湾に、達者海岸という小さな入り江があります。透明度が高く、波の穏やかな入り江で、夏には海水浴場として多くの人々が訪れます。「達者」という珍しい地名は、伝説の安寿と厨子王にちなんだもの。盲目になった母と厨子王が再会し、互いが達者であったことを喜びあった場所と伝えられています。
小説『黄金と十字架―佐渡に渡った切支丹』では、ここで、主人公・弥之助が身投げをしようとしていた遊女・初糸と出会い、ストーリーが動き出します。佐渡金山で鉱夫として働く弥之助も、水金(みずかね)遊郭の遊女であった初糸も、厳しい境遇を生きる若者でした。足にけがをした初糸を背負って、弥之助は遊郭へ送り届けます。
水金遊郭で繁栄を誇った「大黒屋」。昭和10年代まで営業/佐渡市提供
その水金遊郭は、相川町の北部の水金川沿いにありました。江戸時代から昭和10年代にかけて11軒の妓楼(ぎろう)が建ち並び、賑わいを見せた花街です。今も、水金川の流れや遊郭の入り口を示す小さな石の橋・忍橋の姿は変わりません。ただ、豪華さを誇った店々は跡形もなく、わずかな古家が往時の雰囲気を伝えるだけ。空き地には、ぽつんと遊郭跡を示す石碑と遊女の供養塔が建てられていました。
本興寺の「情死の墓」。心中した二人を哀れんで安政6年(1856)に遊郭の主が建立。
遊女たちの悲しい人生は、「相川音頭」の古い歌詞の中に探すことができます。水金町松本屋の遊女・柳川と地役人の家来・虎吉の心中事件もその一つです。水金遊郭に隣接する本興寺には、このふたりの供養のために建てられた「情死の墓」がありますが、江戸時代には心中は重罪だったため、墓が残っているのは珍しいこと。弱い立場の人たちへの共感や思いやりが感じられる小さな墓は、墓地の奥の高台に建っていました。
慶長6年(1601)の開山以来、400年間、日本の経済と工業を支えた佐渡金山。
一方、主人公の弥之助は、相川金山の坑道の奥深くで、金の採掘を行っていました。実際に、江戸時代の採掘風景を再現する佐渡金山の宗太夫抗(そうだゆうこう)を歩くと、閉塞感や暗さから、過酷な仕事だったことがうかがえます。さらに、身分制度も厳しい時代、鉱夫たちは虐(しいた)げられていたのでは――。
金山の歴史の生き字引的存在、濱野浩さん。各地で講演活動も行う。
「金山については、そこまで過酷ではなかったと思いますよ。」と語るのは、佐渡市役所世界遺産推進課の濱野弘さん。佐渡金山の歴史に詳しいスペシャリストです。
「粉じんを吸い込むことで病気にかかりやすかったり、地下水を汲み上げるのは重労働だったりと、確かに厳しい仕事です。でも、幕府直轄の経営になってから、仕事は8時間程度の三交代になるなど、労働環境は改善されたんですよ。それに、新技術も導入され効率化も進みました。」
「その技術も含め、佐渡奉行の大久保長安をキリシタンと関連づける、おもしろい見方があるんですよ。」という濱野さんと、大安寺に向かうことにしました。
佐渡奉行にキリシタンのうわさ
大久保長安が江戸沢の高台に建立した大安寺。寺門から相川の海岸線が見下ろせる。
大久保長安は金銀山経営に詳しいことから、信玄・家康のふたりに重用され、佐渡金山でも大いに力を発揮しました。大安寺は、長安が慶長11年(1606)に建立した浄土宗の寺院です。寺内にある逆修塔(生前に、死後のために建てる塔)の正面デザインが「十字」に見えることから、長安キリシタン説がささやかれているというのです。また、高価な水銀を用いるため幕府が導入を見送った精錬方法「アマルガム法」を、「キリシタンゆえの」外交ルートで水銀を入手して佐渡金山に導入したとも、「キリシタンから金銀採掘の秘術を習った」とも言われています。
「どれも事実ではないでしょうなあ。アマルガム法は導入しましたが、材料の水銀は、幕府を通さずにポルトガル商人から求めたもの。キリシタンとは無縁です。」と、濱野さん。
このアマルガム法を、長安らは「床屋(とこや)水銀ながし」と呼び、そのための大規模な施設を水金町に作りました。水銀を流していたから、水金川であり、水金町と名付けられました。この施設は、慶長13年(1608)前後に稼働していただけで、やがて、享保2年(1717)に遊郭に姿を変えます。そうです、小説の登場人物・初糸がいた水金遊郭です。
次に向かったのは、相川郷土博物館です。その一画のガラスケースの中に、小さな黒いマリア像と伝わるものが納められていました。相川町の民家の仏壇の奥で発見された、木彫りのマリア観音です。キリシタン迫害下の信者たちがひそかに持っていたものと考えられていますが、詳細はわかりません。
佐和田側の旧中山道の入り口。緩やかな道を約15分登ると、キリシタン塚に至る。
そして、小説に何度か登場し、クライマックスで描かれた処刑の場であるといわれる中山峠へ。佐和田町と相川町を結んだ旧中山道(きゅうなかやまみち)は、江戸時代には金を運ぶ主要道でしたが、明治時代に新道ができたため廃道になりました。「最近では、金の道を歩くイベントやトレッキングコースとして使われるので、歩きやすくなったんですよ。」という濱野さんと、佐和田町側から峠を目指しました。両側から雑木林がトンネルを作る小道を15分ほど上ると、開けた公園のような空間に出ます。「ここは、峠の茶屋の跡です。奉行が眺めを楽しみながら一休みした茶屋と、庶民が使った茶屋の2軒があり、金山へ送られてきた無宿人たちが甘酒を振る舞われたというエピソードも残っています。」
目指すキリシタン塚は、その広場の奥の小道を登った先にありました。一辺が約8メートルの四角形の塚には、キリスト像に守られるようにして、墓石や墓標が並んでいます。像や墓標は昭和の改修時に建てられたもの。現在はカトリック墓地として管理されています。
「大正時代に、一人の伝道師がこの塚を発見して発掘調査もしたのですが、結果的には何も見つからず、ここが本当に処刑場だったのか、殉教したキリシタンが埋葬されているのかは謎のままです。」濱野さんは静かに説明を続けます。
小説では、ここで、キリシタンである金山の鉱夫や農民が磔(はりつけ)にされ、処刑されました。作者の玄間太郎さんも取材の際に、ここを二度訪ねています。静かなこの場所から、どのようにしてあれほど凄惨な場面を発想したのか――後編では、中山峠でのキリシタン殉教を始め、佐渡のキリシタン弾圧の事実を探り、小説に込められた作者の思いとともにご紹介します。
■ 取材協力
濱野浩さん 佐渡市役所 世界遺産推進課 指導員
玄間太郎さん 『黄金と十字架―佐渡に渡った切支丹』作者
相川郷土博物館
■ 参考資料
『黄金と十字架―佐渡に渡った切支丹』 玄間太郎 東京図書出版刊
『佐渡相川郷土史事典』 相川町史編纂委員会編 相川町刊
『相川音頭全集』 山本修之助編 佐渡郷土研究会刊
『中山キリシタン塚考』 磯部欣三著 佐渡郷土文化 1991・10月号
『キリシタン研究』 キリシタン文化研究会編 吉川弘文館刊