file-121 越後諸藩それぞれの北越戊辰戦争(後編)

  

激化する戦い。巻き込まれる諸藩

 長岡城を越後攻略の最重要拠点ととらえた新政府軍は、慶応4年(1868)5月19日、信濃川を渡る奇襲攻撃によって城を占拠します。これに対し、長岡藩家老、河井継之助は、奥羽越列藩同盟の各藩とともに長岡城奪還を画策。熾烈(しれつ)にして悲劇的な戦いをたどります。

炎が城を、町を飲み込む。

今町/町が戦場になった

 長岡城落城から3日後の5月22日。河井継之助は桑名領地の加茂を奥羽列藩同盟の拠点と定め、長岡城の奪還を議題に会津・米沢・桑名・村上・村松などの要人と軍議を開きました。
 作戦は翌24日からスタート。各地で布陣していた新政府軍と戦い、長岡城に近づいていきます。中でも、今町(見附市)は、長岡城まで一日で攻め込める距離にあることから、両軍にとって必須の場所。激戦が繰り広げられました。

長岡城

新政府軍にも旧幕府軍にも最重要ポイントの長岡城を巡り、その周辺では多くの戦いが起こった。/長岡城攻防絵図[長岡市立中央図書館所蔵]

 

藤田さん

「町歩きのコースは3つ。それぞれのテーマに沿って45~90分ほどかけ、歩いて回ります」/なびらーず 藤田さん

「新政府軍が、戦いになっても守るから大丈夫だと町民や農民の避難を止めたため、多くの人々が戦闘に巻き込まれました。物資の供出や運搬などに駆り出され、けがをした人もいたと記録に残っています」。今町の歴史を伝える市民ガイドグループ「なびらーず」の代表・藤田潤治さんが、グループで作った街歩きマップを手に、今町での戊辰戦争について教えてくれました。

 

砲弾石碑

長岡藩と高田藩がぶつかった今町の坂井口に立つ石碑には、砲弾の跡が残り、激戦の様子を伝えている。/今町 砲弾石碑

 6月2日、長岡藩は2隊に分かれて今町に侵攻。高田・薩摩・長州・尾州・上田藩からなる新政府軍と激しく戦い、勝利しました。「隠れている敵を追い出すため、町には火が放たれ、ほぼ全域が焼け落ちました。その後の復興には20年かかったと言われています」
 7月24日、継之助率いる同盟軍は、長岡城奪還に動き出します。夜間に、約4キロの広大な湿地帯の中を進み、25日早朝に対岸に上陸して一気に長岡城まで進撃するという、八丁沖渡河作戦。奇襲です。予想もつかない作戦に不意を突かれ、新政府軍は逃走。長岡城は2カ月ぶりに同盟軍の手に戻りました。
 しかし、その喜びもつかの間。長岡城はわずか4日で再び新政府軍の手に落ちました。

 

加茂/死力を尽くして戦う

 三条市から魚沼市を経て会津へ向かう一本の道。実際には八里(約32km)ですが、山間の急峻(きゅうしゅん)な道で、一里が十里にも感じられることから「八十里越え」と呼ばれてきました。7月29日、長岡城で敗れた同盟軍の多くはこの道を通って会津、米沢へ逃れました。戦いで負傷した継之助もその一人。移動の途中、41歳の生涯を終えました。
 一部の同盟軍は、加茂に退陣。桑名藩預り地で同盟軍の拠点であったこの地で、最後の抵抗を見せます。「8月4日夕方から翌5日未明までの加茂下条の大原の戦いは、すでに敗戦が決まっていた同盟軍が最後の力を尽くしたもの。加茂ではこれが唯一の戦いです。山の砲台から銃撃したところ、威力が強く、おびえた村人は村を出て、山林や田んぼに逃げ潜んでいたといいます」。加茂市の郷土史研究家・関正平さんは、武士だけでなく町人や農民が残した記録を丹念に調べまとめています。「大原から加茂町に移った同盟軍が、引き上げていくときに町に火をつけていったという文章も残っています。戦争は武士以外の町の人々にも大きな被害を残していったのです」

 

村松藩/主君と主家を守り通す

佐藤吉宏さんと浦澤正邦さん

月に2回、歴史の勉強会を開催。「村松お城の会」の佐藤吉宏さん(右)と浦澤正邦さん(左)

 村松藩3万石も北越戊辰戦争に巻き込まれ、何度も、藩の存亡をかけた厳しい決断を迫られました。村松の歴史を調べ、次世代に伝えていく活動をしている地元グループ「村松お城の会」の佐藤吉宏会長と浦澤正邦さんに、村松藩にとっての北越戊辰戦争について聞きました。

 

村松藩士七士之碑

五泉市の住吉神社に建つ村松藩士七士之碑。地元では新政府樹立のために命を捨てた7人と讃えられている。

「会津藩領地に接していた村松藩は、旧幕府側につかざるをえない状況でした。そんな中、慶応3年(1867)、尊王思想を藩主に勧めたことで、藩士7名が処刑されるという事件が起きました。尊王は新政府側の姿勢、当時は藩の方針としては打ち出せませんでした。しかし、時代を経て、住吉神社に村松七士之碑が建てられ、新政府樹立のために命を捨てた7人と讃えられるようになりました」
 この事件があったことで、村松藩はこの後、微妙な立場に立たされます。5月14日に村松藩は長岡に出兵し、戦いましたが、長岡城は落城。加茂軍議では、継之助に旧幕府軍への忠誠を疑われ、軍議に参加していた田中勘解由(かげゆ)が自決を図り、未遂に終わります。また、後の赤坂の戦いでは、継之助に「村松藩では隊長以上で戦死した者がいない」と言われ、自殺的な戦死を遂げた者もいました。「もはや、尊王でも旧幕府側でも破滅は必至。その状況の中でも彼らは、当時の道徳、つまり『忠義とは自分の命を捨ててでも、仕えている主君と主家を守ること』を遂行し続けたのです」。8月4日、村松城落城。会津・桑名藩士が城下に火を放って退却し、村松城下は燃え落ちました。

 

村上藩/北越戊辰戦争の終焉(しゅうえん)

「藩主が京都所司代を務めたこともあり、朝廷への貢献の意識は高い一方、地理的には旧幕府側の会津・庄内に近い村上藩は、新政府側か旧幕府側か、藩論がなかなか統一できませんでした」と、村上市教育委員会の竹内裕(ゆたか)さん。また、長州征伐などによる軍費の負担も重く、城内は疲弊(ひへい)していました。
 その中での北越戊辰戦争の開戦。前藩主は江戸におり、19歳の藩主はなすすべもなく孤立し、家老にも藩をまとめるだけの力がありませんでした。

 

村上城

江戸時代初期の藩主、堀直竒(ほりなおより)が10万石以上の軍役を基準に造った村上城。少人数では守り切れなかった。

 長岡城を制した新政府軍が迫ってきます。8月10日、城下に避難命令が出て、町人はもとより藩士の中にも逃げ出す者が現れました。翌日になっても、その混乱は収まらず、対照的に城の中は静まり返っていたといいます。もともと10万石の軍役を基準に造られた村上城は、防御線が長く、少ない藩士たちで守り切れるものではありませんでした。砲声が上がり、本丸に火の手が上がると、家老の鳥居三十郎ほか抗戦派の藩士は庄内方面に向かい、帰順派の藩士は投降。11日、村上城は落城。「村上城が戊辰戦争の戦火を逃れたため、村上は江戸時代の風景を今に残すことができたのだと言えます。町屋や武家屋敷を巡り、当時に思いを馳せていただけたら」と、竹内さん。北越戊辰戦争は終結し、戦いの舞台は会津へ、東北へと移ります。

 

 北越戊辰戦争の大局を決する、厳しい戦いが繰り広げられた朝日山のふもと、信濃川にかかる越の大橋のたもとに、「峠」の文学碑が建っています。「峠」は司馬遼太郎のベストセラー、主人公は長岡藩家老・河井継之助です。「武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現しきった集団はない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史に向かって語り続ける道を選んだ」という司馬遼太郎の言葉が刻まれています。
 強大な力に翻弄され、否応なく戦いに巻き込まれ、それでも武士の義のために力を尽くした――それは、長岡藩だけではありません。北越戊辰戦争の戦いの地やゆかりの場所を巡って、それぞれの藩にとっての戦いの意味を考えてみませんか。

 

 終戦後、北越戊辰戦争で荒廃した町は、住民たちの尽力によって復興を遂げました。中には、地場産業を発展させ、国内でも指折りの産業に育てた町もあります。
 江戸から明治へ。封建時代から近代へのターニングポイントとなったと言われる明治維新。そこには、避けることのできない「時代の要請」があったのかもしれません。

 

※文中の日付は、旧暦で記載しています。

 


■ 取材協力
藤田潤治さん/見附市「なびらーず」代表
関正平さん/加茂市郷土史研究家
佐藤吉宏さん、浦澤正邦さん/「村松お城の会」
竹内裕さん/村上市教育委員会 生涯学習課


■ 参考資料
「新潟県の合戦」長岡・柏崎編/株式会社いき出版発行
「加茂郷土誌」第14号/加茂郷土調査研究会発行
「村松の歴史と風土」/村松お城の会発行
「村上市史 通史編3」/村上市発行

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