file-137 伊夜日子大神(いやひこおおかみ)伝説(後編)
まずは話し合い、戦いを避けて調和せよ
曾祖母である天照大御神の言葉を守った伊夜日子大神
第二次世界大戦後、急激なグローバル化が押し寄せた日本。海外の思想や価値観という大波に足下がさらわれ、不安定なイデアの上に私たちは立っているのかもしれません。千年、二千年と語り継がれる伝説は単なる物語ではなく、日本人が見失った答えが編まれているようです。
古代の日本人は精神的に成熟していた
「神道では、神様は古代から途切れておらず霊魂はずっと生きている、日本の神様は日本人の先祖であり私たちも神の子という考えです。そう信じているから神社があり、みなさんが参拝にいらっしゃる」/高橋さん
彌彦神社ほどの規模になると役職も細分化されて、神社を代表して主管する宮司(ぐうじ)の下に、権宮司(ごんぐうじ)、禰宜(ねぎ)、権禰宜(ごんねぎ)、出仕(しゅっし)と続きます。今回お話を伺った高橋孝至さんは権禰宜で、教化(きょうか)課という部署で、彌彦神社のことや、神様・神道に関する広報を担当しています。
越後平野の真ん中にあって、生活に根ざす神々しさがある弥彦山。信仰が深い人のほとんどは弥彦山が見える範囲に住んでいるという。神様の御山として子どもの頃から見て、感覚として身に付いているのだろう。
―『玉うさぎ』 弥彦名物のうさぎのお菓子。これは野うさぎが伊夜日子大神にひれ伏して話を聞く姿を現している。野うさぎに畑を荒らされて困った人たちが大神に頼むと、うさぎを集めて「荒らしてはいかんよ」と諭された。それから被害がなくなった―
「大神は天照大御神のひ孫ですから大きなお力があった。うさぎも踏みつぶす方が早いはず。野積で賊を成敗したときも、お諭しになって最後は部下にした。最初から戦闘態勢で相手を滅ぼさず、まずは相手と話す。これを『言向け和す(ことむけやわす)』と言い、武力は八方手を尽くしてから仕方なしに使う。古代の日本人は精神的に成熟していたのです。戦国時代の上杉謙信は戦を繰り返しますが、大神に恥ずかしくない戦をします、と誓っている。武田信玄も同じように諏訪の神社に誓っていたでしょう。取ったり取られたりの国取りゲームではなかった。だからこそ、敵に塩を送るのです」と高橋さんは言います。
日本人は古代より「言向け和す」に従い、調和を重んじる民族でした。海外からはハッキリものを言わないと揶揄されますが、相手を深く思いやることで言葉にせずとも察し合う、独特のコミュニケーションが発達したのです。
「奥様もお優しいお人柄でした。弥彦山の日本海側8合目に松があり、離れて暮らしてもお互いを忘れずにそこで会っていたという『逢い引きの松』の伝承があります。それ位に仲の良いご夫婦でした。もし、仲が悪くとも隠す事情はないので語り継がれる素地があったから伝承となったはず。伝説とはそういうものであり、証明する手段はありませんが、後世の人間もそれをまったくの絵空事とは言えないのです」と高橋さんは言います。
昔のことを話しているようで、実は今のことでもある
「歴史と伝説を勘違いする人がたくさんいますが、例えば、大神が280年生きたのなら、あぁ、そうですか、でよいのではないでしょうか。神社にねだるのではなく感謝の気持ちがあれば行動も伴う。神を敬い、祖先をあがめる。これさえわかれば何とかなる」/西澤さん
西澤さんのお店に貼られている大神の家系図。大量の資料から弥彦に関係することを丹念に調べあげていく。
弥彦観光協会には30数名のボランティアガイドが在籍し、年間約3,000人を案内しています。西澤哲司さんは15年以上も続けてきたベテランで、何時間でも話を聞きたいほど知識の引き出しを持っています。選んでくださった伝説は『安麻背(あまぜ)』『雷退治』『九鵙(くもず)』で、ガイドのときによく使うそう。安麻背と九鵙は大神が成敗した後に許した賊の頭の名前です。
神社境内にある「火の玉石(重軽の石)」は、石占(いしうら)の一種で、持ち上げたときの重量感で吉凶を占います。自分の意志の強さも関係し、軽く感じると願いが叶うといわれ、西澤さんが案内するとほとんどが「重い、軽い」と言いながら持つそうです。
弥彦では神様のおかげという感謝の気持ちが古代から続いており、伝説は昔のことを話しているようで、実は今のことでもある。そうでなければ年間200万人も参拝に来ません」と西澤さんは言います。
また、新潟県内に神社数が多いのは、大神がもたらした米作りに関係があります。狩猟から食料を得ていた先住民が、米作りによって定住できるようになりました。食べられるようになるとどんどん新しい集落が増えて、集落ごとに大神をお祀りする神社も建てられました。定住できる生業を授けてくださった大神は、広く「おやひこさま」と呼ばれ、親しまれていったのです。長岡市出身の山本五十六の言葉に「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」がありますが、「米作りを先住民に教えた大神もまさにそうだったのではないか」と西澤さんは思いを馳せます。
生きる伝説!?お隠れになった後も大神に仕える社家(しゃけ)
神職は親子が同時に神社に入ることができず、お父様が神主だったため早福さんのお兄様は、兵庫県神戸神社で奉仕されている。そのお孫さんが神主になりたいと言っており、親族で期待している。
明治時代の大火までは平塩家も神社の境内に住まいがあったが、火災になると大変だからと門前に出させられた。以前は社家と町方の間に門があり、別領域になっていた。今でも社家の玄関には通年しめ縄が張られている。
お兄様で社家の53代目という早福史子さん。実家の平塩家の祖先は、伊夜日子大神とともに大和からやって来た18人の一人です。その子孫を「社家」と呼び、分家ができたり絶えたりしながら増減し、現在は10数家が彌彦神社門前に残ります。代々の男子は彌彦神社の神官を務め、お隠れになった後も2400年以上大神に仕えてきました。社家のみなさんこそ、もはや生きる伝説です。
平塩家は、塩づくりに携わったことから名字を賜り、大神の息子を祀る乙子(おとこ)神社をお守りしてきました。「お隠れになった大神を祀ったのが乙子様で、乙子様だけ御神木の脇に御神廟(ごしんびょう)(墓)があります。子どもの頃に父から聞かされて誇りに思っていました。いつも神様に守られている気がします」と早福さんは言います。
現在の実家は古民家再生で有名なカール・ベンクス氏に依頼し、彌彦神社の棟梁が建てた匠の技を生かしながら改築、和Café社彩庵(しゃさいあん)とおみやげ店ひらしおとして営んでいます。改築前には3畳ほどの神棚を置く部屋があったそうです。「幅1間、奥行き半間もある神棚は彌彦神社を模したもので、棟梁が造ってくれました。言い方はおかしいですが、本物のミニチュアです。神棚にはお水、お塩、お米、お神酒を三方に乗せてお供えします。お墓参りのときはそれらを椿の葉に乗せて、玉串やろうそくとともに、一つずつのお墓に供えます。昔はお墓が100いくつもあって、私の代でまとめましたが、それでも40ほどが3カ所に分散しており、準備からして大変です」と早福さん。歴史ある家系のご苦労は常識では計り切れません。最近では社家が集まり、家に残るものを書き留めて教え合おう、代々伝えていこうと活動を始めました。「例えば、同姓が多いのですが、どこの分家かわからない家もあります。その方は、同じ苗字のお墓を探し始めました。こうして集めたものが次の伝説になる。会長さんをはじめ、みなさんが一生懸命です」と早福さんは言います。
そういえば、なぜお酒を神様に供えるのでしょう。また、農業や漁業、鍛治などは生活に必要でしたが、どうして大神は酒づくりも教えられたのか彌彦神社の高橋さんに伺ってみました。「お酒は、飲んで楽しいし、大神も他の神様のお供えに使ったのでしょう。供えた酒にはお力がこもり、私たちが口にすることでお力を頂戴する。それを『直会(なおらい)』と言います。飲んで笑い、楽しめば調和につながる。神のお力をいただいて明日からまた生活しようと思う。神様はよりよく生きるための喜びも教えてくれたのです」
神社の鳥居をくぐる前、出た後に軽く礼をする人が増えている。最近では、戦後に見失った日本人とは何かを見つけようと、神社にやってくる若者も多い。
伝説は昔話のようで、実は今の話であり、私たち自身に関係するかもしれません。弥彦は年中美しい。雪降る冬は神社がさらに幻想的に。春には一万本の桜が咲き乱れ、若葉が萌えて「山が笑う」頃には、田んぼに水が張られて水鏡となる。つつじ、あじさいと花が咲き、6月の終わりからゲンジボタルが舞う。秋の菊まつりも見応えがあります。あふれる自然の中で、伝説の世界を感じてみてはいかがでしょう。
掲載日:2020/7/13
■ 取材協力
高橋 孝至さん/彌彦神社 権禰宜
西澤 哲司さん/弥彦観光協会ボランティアガイド、西澤商店店主
※ガイドの依頼は弥彦観光案内所へ要予約
弥彦観光協会Webサイト ぼらんてぃあガイド
電話0256-94-315(営業時間:通年 9:00~17:00)
早福 史子さん/和Café社彩庵、おみやげ店ひらしお
■ 参考資料
弥彦村役場ホームページ>観光情報>弥彦の昔話
彌彦神社ホームページ