file-26 川がつくった新潟 -その2 「町は川辺にできる」

「町は川辺にできる」

 新潟県で暮らす人にとっては馴染み深い「市(いち)」。広場や公道を使って「2と7のつく日」や「5と10のつく日」など特定の日に開かれる市場には、近所の農家が、生活用品を始め旬の農産物を売る店を出し、にぎわいます。全国的にはこれほど多くの市が立つのは珍しいのです。市の立つ場所を知っていたら思い浮かべて下さい。それは、川のそばではありませんか。

 新潟の二つの大河、信濃川と阿賀野川には、多くの支流が注いでいます。平野部では支流が網の目のように通り、川は人と荷物の通り道でもありました。江戸時代、川舟は安価で大量輸送ができる効率的な手段だったのです。しかも新潟は川湊で、海路と越後国内の流通路が直結していました。そのため陸路であれば江戸に最も近い魚沼地方の米も新潟から船に乗せられていました。そして内陸の米沢藩や会津藩の米も、荒川や阿賀野川を通って新潟に集められていました。

 新潟が湊町として整備されたのは江戸時代の初期。これによって元禄時代(1688~1703年)にはその存在が広く知られるようになり、海上輸送で湊に入る船は1日平均で16艘(そう)ほどもあったといわれます。川の流れの変化によって一時、湊は衰退(3ページ参照)しますが、幕末が近くなると蝦夷地(えぞち:北海道)の開発や交易の拠点として再び盛り返し明治を迎えました。

 川を行き来する船の中には、新潟湊と地元を往復するだけの船もあれば途中で荷物を積み替えたりする船、湊へは行かず各地を行き来して人や荷物を運ぶ船もありました。荷物を陸揚げしやすい土地や人が集まりやすい場所で、荷揚げされる荷物の物売りをしたのが「市」の始まりです。そうした露天が増えてくると市日が決まり、市日を目指して人と物がさらに集まります。そうするうちに家が建ち、集落ができ、町になりました。

 町の成り立ちにはパターンが幾つかあり、例えば街道沿いの宿場(江戸時代は幕府によって指定されていました)から発展した宿場町、大きな神社仏閣の周辺に開けた門前町、政庁でもあった城下町などです。これとは別に、特に核となる要素がなくできた町を在郷町(ざいごうまち)と呼びますが、新潟県にはたくさんの在郷町があります。その多くは、市が立ったことでできた町です。かつての旧市町村の多く、巻、白根、横越、味方など、平野部の多くの市町村が川沿いに発展した在郷町でした。また、六日町、十日町、五日町、一日市など、町名に数字がつく町が多いのも新潟の特徴の一つ。これも川沿いにある、市の立つ町だった名残です。

川沿いに発展した新潟県の在郷町



※明治22年新潟県全図から作成。赤いポイントが当時人口1000人を超えていた町や村。その多くが川沿いにあり、この後市役所や町役場の所在地に変わっていきました。オレンジのポイントは宿場や城下などがあった町(同じく人口1000人以上)。信濃川水系舟運の最上流は六日町、阿賀野川舟運の最上流は津川だったといわれています。

file-26 川がつくった新潟 -その2 船旅暮らし

船旅暮らし

 江戸時代の新潟には、舟運を生業とした多くの人々が暮らしていました。廻船業は、依頼された荷物を運んだり自ら買った荷物を別の国で売ったりして利益を出していました。船主はいわば資本家で、船に乗り込むのはそれを生業とする人々でした。

 その一方で、新潟では内陸の舟運のみを行うグループも複数存在していました。彼らは「船道」(ふなとう)と呼ばれ、蒲原(新潟市)、蔵王(長岡市)、津川(阿賀町)などを拠点にしていました。藩の物資や米の輸送を生業にする組もありましたが、このうち津川船道は荷物を各地で売買して利益を上げる独自の活動をしていました。

 こうしたことは、津川船道が現金出納帳として日々の記録を残していたことで知ることができます。

 津川船頭の一年を見てみます。

 幕末に近い弘化2(1845)年は、3月初旬にその年の一番船を出します。拠点は阿賀町の五十島(いがしま)。ここから阿賀野川を下り、半月から一月半ほど県内各地を回り阿賀野川を上って五十島に戻ります。この年は12月の末まで、計6回船を出しました。

 彼らの行く場所は川沿いで人とモノが行き交う場所。新潟(阿賀野川→通船川→信濃川)や沼垂(同)、三条(阿賀野川→小阿賀野川→信濃川)や燕(阿賀野川→小阿賀野川→信濃川→刈谷田川)など、縦横に平野を流れる川を利用して各地を回っていました。

 地図は弘化2(1845)年3月の一番船の行程を示したものです。3月2日に薪を積んで五十島を出発し、阿賀野川を下りその日のうちに大野(新潟市西区)に到着しています。大野は信濃川、小阿賀野川、中ノ口川が合流する地点で、江戸時代は宿場町でもありました。大野から中ノ口川を上り、燕から信濃川、そして刈谷田川を上って見附(今町)まで行き、4日間滞在した後戻ります。小阿賀野川から阿賀野川に入った後は、5日間かけて五十島着。行きの5倍の日数がかかることから、帰路は川の流れに逆らって進むのが大変だったようです。

 他の旅でも阿賀野川を下って新井郷川をさかのぼり、葛塚(新潟市北区)など、福島潟周辺も津川船頭は訪ねていました。葛塚は5と10のつく日に露天市が立ち、昔からにぎわっていました。今でもこの市は続いており、地元の人々や観光客でにぎわいます。津川船頭も、各地の露天市で荷物を売買したのかもしれません。

津川船道の旅の記録
   
五十島(3月2日) 薪を買って阿賀野川を下り、小阿賀野川経由で信濃川へ。
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大野(3月2日、3日泊) 薪を売って白米、酒を購入。信濃川から中ノ口川に入る。
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月潟之下(3月4日泊)  
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(3月5、6日泊) 釘を買う。信濃川から刈谷田川に入る。
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三林村(3月7日泊)  
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今町(3月8日~12日) 薪を売り、かれい、えびなどを買う。
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鬼木村(3月13日泊) 14日に三条で徳利、干鱈などを買う。刈谷田川から中ノ口川へ入る。
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酒屋町(3月14日泊) 15日に満願寺で干鱈を買う。小阿賀野川から阿賀野川へ入る。
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水曽根(3月15日泊)  
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平柄場(3月16日泊)  
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飯田新田(3月17、18日泊)  
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石間村(3月19日泊)  
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五十島(3月20日着) 18日間の船旅

file-26 川がつくった新潟 -その2 動く島と閉じる川

動く島と閉じる川

津川

かつて多くの川船が停泊し、会津との交易拠点だった津川。港の名残は町の随所に残されています。

 川を通じた舟運の発展は、他国と通じる窓であった新潟湊の発展と足並みを揃えていましたが、日本海側で有数の湊町新潟はその一方で、川湊ゆえの多くの問題を抱えてもいました。

 現在の新潟市は、律令国家が整備された8世紀には既に湊として利用されていました。当時は「蒲原の津」と呼ばれていたようですが、信濃川と阿賀野川の河口付近は巨大な入り江があり、今とはずいぶん地形が違います。

 「新潟」という地名が登場するのは戦国時代で、現在は同じ新潟市になっている信濃川右岸の沼垂は、新潟よりはるかに古い歴史を持っています。新潟と沼垂は、今でこそ信濃川を挟んで目と鼻の先にありますが、かつての信濃川は、天候によっては対岸が見えないほど川幅が広く、新潟は長岡藩、沼垂は新発田藩の領地でした。そして二つの湊とそこで働く町の人々は、江戸時代を通じて常に競い合ってきました。これまで分かっているだけで、沼垂は4回、新潟は1回、町ごとそっくり移転しています。当時は河口付近で合流していた信濃川と阿賀野川が、大量の土砂を運びたびたび地形が変わったためです。湊の仕事で成り立っていた新潟と沼垂は、砂がたまって川が遠くなると町ごと川のそばへ移転し、川が流れを変えて町を押し流すと安全なところへ町を移すという歴史を重ねてきました。新潟駅と万代シテイの中間あたりに流作場(りゅうさくば)と呼ばれる地名が残っていますが、ここはかつては島でした。現在は信濃川右岸の沼垂側にありますが、当初は左岸に近いところにできた島だったため、新潟町の所有地となりました。片方の砂が川の流れで削られ、片方には砂がつくうちに、どんどん沼垂に近づいて今の姿になりました。上流にダムができ、延々と護岸された現在では信じられない光景です。
※新潟市歴史博物館「みなとぴあ」提供

新潟町沼垂町論所立会絵図

 長岡藩と新発田藩は、湊の権益や川の中にできた島の領有を巡って常に争ってきました。ところが享保16(1731)年、両者の間に思いがけない事態が起こります。信濃川と合流していた阿賀野川が、流路を変えて現在の河口(新潟市松崎)から日本海に注いでしまったのです。

 直接のきっかけは、新発田藩が進めた水抜き用の堀の堰が決壊してそちらに一気に阿賀野川の水が注いでしまったためですが、当時幕府が積極的に進めていた新田開発と複雑に入り組んだ事情があるのです。
 

 
 

和船「こうりんぼう」

魚野川の舟運で盛んに行き来していた和船「こうりんぼう」(新潟市周辺の平野部ではコウレンボウと呼ぶ)が復元されています。南魚沼市六日町大橋西詰「こうりんぼうの館」(入場無料)

津川の町並み

かつて多くの川船が停泊し、会津との交易拠点だった津川。港の名残は町の随所に残されています。

 新潟平野には当時、福島潟を筆頭に巨大な潟湖がたくさん存在していました。これらを干拓して農地を増やそうとする動きは活発でした。平野に点在していた潟の一つであった塩津潟(のち紫雲寺潟・新発田市)では、幕府の許可を得て干拓事業が始まります。この一帯は三日市藩(このおよそ10年前から越後にできた小藩)領で、幕府から許可が出たことを、新発田藩は工事が始まるまで知りませんでした。工事の内容は、塩津潟に注いでいる川を締め切って潟に入る水を減らすものです。川水の行く先がなくなるわけですから、新発田藩の農地が行き場をなくした水で水没する可能性が出てきます。新発田藩は幕府に工事中止を求めましたが断られました。そのため同藩は塩津潟に注ぐはずだった水が集まる阿賀野川から日本海に最短距離を結ぶ堀を作って増水時になったら日本海に水を逃がす計画を立てます。これを聞いた新潟町は、途中で川水を日本海に出せばもともとの阿賀野川河口へ注ぐ水量が減り、その結果湊の川底に砂が堆積してしまうと猛反発をしますが、幕府は新発田藩の求めどおり工事を許可します。新発田藩と長岡藩は、その堀に必ず堰を設け、増水時だけ水を流すこと、もしも堰が決壊したらすぐに復旧することなどを取り決めましたが、工事を終えた翌春の増水で堰が決壊します。これが現在の阿賀野川河口付近ですから、約束どおり埋め戻せという新潟町の要求に応えることはできず、現場を視察した幕府も復旧はあきらめるよう言うほかはありませんでした。これによって新潟町が恐れていたとおり、湊の川底に砂が堆積し、大きな船が入れなくなってしまいました。幕末近くなると蝦夷地(えぞち)との貿易で湊は再び栄えますが、明治の開港5港に指定されても諸外国から「船が入れないから別の港を開港してほしい」といわれるまでになってしまいました。

 一方、阿賀野川の水位が下がったことで新発田藩領はその後干拓が進み、信濃川流域でも阿賀野川の水圧が減ったことで平野部の川の水位も下がります。この事件は湊が生活の糧だった新潟にとっては悲劇でしたが、毎年のように洪水に悩まされていた農民にとっては歓迎すべきことでした。

 明治以降の治水については、その3に続きます。

協力:新潟大学 原直史教授

 

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▷『中世越後の旅 永禄六年北国下リノ補足』

(大家健/著 野島出版 2003 貸郷214.1-O31)
 本書では、永禄六年(上杉謙信が活躍した時代)に越後を旅した僧一行の旅の記録を考察しています。メインは当時の旅の様子なのですが、やっぱり中世期の信濃川・阿賀野川の河口推定図は衝撃的。新潟…陸地がほとんどありません。

▷『日本奥地紀行』

(イザベラ・バード/著,高梨健吉訳 平凡社 2000 貸郷291-B46)
 イザベラ・バードが著した『Unbeaten Tracks in Japan』とは、直訳すると『日本の未踏の地』。明治時代に東京から北海道までを旅した英国人女性の旅の記録です。辛口の日本評ですが、ドレスの上に蓑と笠を付けた表紙の絵を見れば、それも無理からぬことなのかも…。彼女は津川から新潟までの旅程を川舟で旅しています。

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新装版 火坂雅志/著 NHK出版 2008 貸郷913.6-H76-1)
 意外ですか?『天地人』にもあるんです。川下りの場面。第4章「雪崩」で兼続がお船を大湯温泉まで送っていく際、六日町から小出まで魚野川を舟で移動します。2頁にも満たない場面ですが、越後らしい情緒豊かなシーンですよ。まだ読んでいない方、そんなシーンあったっけ?という方は是非ご一読を!

▷『舟運都市 水辺からの都市再生』

(三浦裕二/ほか編著 鹿島出版会 2008 684-Mi67)
 昭和39年の新潟国体を機に埋め立てられるまで、新潟は縦横無尽に張り巡らされた堀割と多くの橋、傍らに柳のゆれる水の町でした。もし掘割が埋め立てられていなかったなら新潟はどんな町になっていたのでしょう?本書は世界各国の運河に関する専門書です。読み応え十分な一冊。

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