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file-26 川がつくった新潟 -その2 船旅暮らし


船旅暮らし


 江戸時代の新潟には、舟運を生業とした多くの人々が暮らしていました。廻船業は、依頼された荷物を運んだり自ら買った荷物を別の国で売ったりして利益を出していました。船主はいわば資本家で、船に乗り込むのはそれを生業とする人々でした。

 その一方で、新潟では内陸の舟運のみを行うグループも複数存在していました。彼らは「船道」(ふなとう)と呼ばれ、蒲原(新潟市)、蔵王(長岡市)、津川(阿賀町)などを拠点にしていました。藩の物資や米の輸送を生業にする組もありましたが、このうち津川船道は荷物を各地で売買して利益を上げる独自の活動をしていました。

 こうしたことは、津川船道が現金出納帳として日々の記録を残していたことで知ることができます。

 津川船頭の一年を見てみます。

 幕末に近い弘化2(1845)年は、3月初旬にその年の一番船を出します。拠点は阿賀町の五十島(いがしま)。ここから阿賀野川を下り、半月から一月半ほど県内各地を回り阿賀野川を上って五十島に戻ります。この年は12月の末まで、計6回船を出しました。

 彼らの行く場所は川沿いで人とモノが行き交う場所。新潟(阿賀野川→通船川→信濃川)や沼垂(同)、三条(阿賀野川→小阿賀野川→信濃川)や燕(阿賀野川→小阿賀野川→信濃川→刈谷田川)など、縦横に平野を流れる川を利用して各地を回っていました。

 地図は弘化2(1845)年3月の一番船の行程を示したものです。3月2日に薪を積んで五十島を出発し、阿賀野川を下りその日のうちに大野(新潟市西区)に到着しています。大野は信濃川、小阿賀野川、中ノ口川が合流する地点で、江戸時代は宿場町でもありました。大野から中ノ口川を上り、燕から信濃川、そして刈谷田川を上って見附(今町)まで行き、4日間滞在した後戻ります。小阿賀野川から阿賀野川に入った後は、5日間かけて五十島着。行きの5倍の日数がかかることから、帰路は川の流れに逆らって進むのが大変だったようです。

 他の旅でも阿賀野川を下って新井郷川をさかのぼり、葛塚(新潟市北区)など、福島潟周辺も津川船頭は訪ねていました。葛塚は5と10のつく日に露天市が立ち、昔からにぎわっていました。今でもこの市は続いており、地元の人々や観光客でにぎわいます。津川船頭も、各地の露天市で荷物を売買したのかもしれません。


津川船道の旅の記録
   
五十島(3月2日)
薪を買って阿賀野川を下り、小阿賀野川経由で信濃川へ。
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大野(3月2日、3日泊) 薪を売って白米、酒を購入。信濃川から中ノ口川に入る。
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月潟之下(3月4日泊)  
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(3月5、6日泊) 釘を買う。信濃川から刈谷田川に入る。
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三林村(3月7日泊)  
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今町(3月8日~12日) 薪を売り、かれい、えびなどを買う。
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鬼木村(3月13日泊) 14日に三条で徳利、干鱈などを買う。刈谷田川から中ノ口川へ入る。
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酒屋町(3月14日泊) 15日に満願寺で干鱈を買う。小阿賀野川から阿賀野川へ入る。
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水曽根(3月15日泊)  
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平柄場(3月16日泊)  
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飯田新田(3月17、18日泊)  
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石間村(3月19日泊)  
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五十島(3月20日着) 18日間の船旅


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