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file-35 北前船が運んだもの ~松前の「越後」



松前の「越後」


宿根木の海岸

「宿根木の海岸」
かつて北前船が寄港していた海岸。岩場に見える白い杭が船をつないでいた「船つなぎ石」と呼ばれ、御影石でできています。


宿根木の家並み

「宿根木の家並み」
船のような三角形の家。船大工の里、佐渡の宿根木には独特の家並みが残されています。

 北前船の輸送で、越後各地から江差(えさし)港への移出は圧倒的に米。そして移入は棒鱈(ぼうだら)、身欠き鰊、塩鮭、数の子など海産加工品です。これらは県内各地で消費され、その多くは郷土料理の食材として愛されています。

 北前船を通じて、北海道と越後にはさまざまな接点が生まれました。ニシン漁の網は「越後網」と呼ばれていました。柏崎から刺し網の漁網が持ち込まれ、18世紀になるとこの漁法が普及したためです。当時の蝦夷地の流通の拠点であった松前城下や江差には、「佐渡店(さどだな)」「越後店(えちごだな)」と呼ばれる店も立ちました。「佐渡店」で売られた商品は竹や縄、草履などの藁(わら)製品。北海道では米が採れないため藁がなく、日用品が不足していました。「越後店」は米や酒、金物や漁網。北前船で手広く売買するほかに、数か月間だけ店を開いて本国へ帰る出稼ぎ者もたくさんいたようです。特に佐渡では「松前稼ぎ」という言葉が残っているほど盛んに行われており、幕末には奉行所が島内の労働力低下を危惧して制限を加えるほどでした。

 越後の人々が松前と手広く商売を行っていたのは、米や酒を販売できたということもありますが、松前藩一の豪商といわれた関川家が越後出身だったことも影響しています。関川家は初代与左衛門(よざえもん)が関川(妙高市)出身、中興(ちゅうこう)の祖とされる八代平四郎が橋場村(柏崎市)出身。この関川家の取引相手が、日本海側の各地の中では越後が突出し、特に出身地に近い今町(上越市)が群を抜いていました。同家の記録では、1772年から1869年までの97年間で取り扱った廻船(かいせん)数が2065艘。国別では越後の船が最も多い542艘を占めていました。越後の廻船は米を積んで江差へ行き、帰りには鰊を積んで越後ではなく敦賀へ運びました。

 幕末における開拓の第一人者として、函館に記念碑の建つ松川弁之助(1802-1876)は井栗村(三条市)の庄屋に生まれました。ロシア船が出没して海防軍備を整えるため幕領となった蝦夷地で、幕府の許しを得て函館に渡り、五稜郭(ごりょうかく)築城に関わった後、樺太(からふと)での漁場開拓に取り組みます。1858年に始めた樺太開発では越後から12隻の船団を組み、多くの越後人を乗せて旅立ちました。越冬に失敗し多くの死者を出し、弁之助は1862年、失意の末故郷に戻りましたが、この間樺太との物産を唯一許された新潟港は函館との間で独占的な地位を得ることになります。また弁之助が本国へ引き揚げた後も、共に樺太へ渡ったうちの数人は現地に残り、漁場開拓を続けました。1872年に創業し、後に北海道で最高級の百貨店といわれた丸井今井の創業者である今井藤七(1802-1876)、北洋の漁場開拓を行ったニチロ創業者の堤清六(1880-1931)もともに三条市の出身。明治から戦前までの間、北海道へ渡った開拓者のうち、新潟県からの移住者は青森、秋田に次いで都道府県別では第3位です。北前船は、北海道と新潟を固く結んでいました。明治の末には、新潟から北海道へ渡った人々が札幌に弥彦(やひこ)神社を建て、今も大切に守られています。


《 北前船関連の資料を所蔵する博物館など 》
新潟県立歴史博物館
佐渡国小木民俗博物館
桃崎浜文化収蔵庫(胎内市生涯学習課)
佐渡小木海運資料館
新潟市歴史博物館 みなとぴあ
旧新潟税関庁舎



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