寺泊駅近くの当新田の万福寺という寺に、良寛が少年時代に学んだ狭川(きょうせん)塾の師、大森子陽の墓があります。三十九歳で郷本の空庵に帰ってきた良寛は、何よりも先に子陽の墓に詣でています。その大森家墓地に良寛の詩碑が建てられていますが、「弔子陽先生墓」の詩は良寛の心情が切々と伝わってくるのです。その詩をわかりやすく説明すると次のようになります。
「あれはてた、岡のかたわらの古びた墓には、年々うれいげな草がはびこっている。水をかけたり、まわりを掃く人もなく、時に草刈りや木樵りの通る姿を見るだけである。思えばむかし子供のころ、狭川の塾に通った。それがいったんお別れしてから、先生も私も消息を絶ってしまった。いま、ようよう帰ってきて訪ねたものの、先生は逝去されてしまっている。どのようにして、先生の霊とおはなしすればいいのだろう。ひとすくいの水を墓石にそそいで、おとむらいのことばを申しあげてみる。陽は見ているうちに西へ沈み、山野は松風の音がするばかり墓石の前を行きつ戻りつ、去りがたい気持でいると、とめどなく涙が出てきて衣の裾をしめらせる。」
人生の恩師として子陽を偲ぶ良寛の澄んだ気持があふれているのです。良寛は帰郷を機に、ひたすら詩作三昧にふけりそして人に乞われるままに自由闊達で滋味あふれる書を残して、悠然と放浪を続けました。
寺泊には、良寛の息づかいが聞こえてくるほど、良寛が残した詩歌や書が多くあります。また寺泊を含め、旧分水町、旧和島村、出雲崎町、旧与板町など近郷の町々にたくさんの足跡を残しております。
近年「良寛ブーム」につれ、それらの遺墨や史跡なども地元「良寛会」の手により研究整備され、良寛に関する書籍も多く刊行されています。
良寛のふるさとであるそれぞれの町や村は今、都市化を急速にいそぎはじめています。しかし時世がいかに様変りしても、良寛の歩いた道には一木一草が往時を語りかけ、時間と空間を超えて、ここ寺泊の地を訪れる人々の胸に、良寛さまはいつまでも生き続けるのです。
出典:長岡市寺泊支所地域振興・市民生活課
提供元:長岡市寺泊支所地域振興・市民生活課
画像提供元:長岡市寺泊支所地域振興・市民生活課