嘉永五年(一八五二)二月の記録に「古来の能装束が切損し役に立たなくなったので奉納を願う」とあることから推して大須戸能の起源はこれよりなお久しく遡るものと推定される。
伝によれば弘化元年(一八四四)の冬、庄内の黒川能役者蛸井甚助が当地に逗留した際、庄屋、神主など村人十九人の能社中が、数年にわたり熱心な指導を受け、嘉永四年三月鎮守八坂神社の社殿ではじめて演能したが、当時既に式三番のほか、能十五番を習得していたという。神社の境内には、蛸井甚助が帰郷する際、記念に残したといわれる「黒川や上に流れて花の郷」なる句碑がある。
その後明治、大正、昭和にかけて更に庄内黒川より師を招き、新たに十番を習得した。能が神事として演じられたのは、昭和七年八坂神社が村社に昇格してからで、以前は一月十一日の山神祭の日と、四月三日の節句に演じられていた。
八坂神社の境内には、古くから、能舞台が設けてあったが、雪害で壊れて以来しばらく再建を見なかった。その後、大正二年三月大正天皇即位を記念して建設した能舞台も老朽化し、昭和六十三年新舞台が建設された。
出典:
『薪能』
提供元:大須戸能保存会
画像提供元:
新潟県写真家協会