この住宅の所有者であった笹川家は、安土桃山時代に信濃国水内郡(しなののくにみのちぐん)笹川村から、この味方(あじかた)の地に移住したと伝わり、昭和45年(1970)にこの地を離れるまで、14代300年以上にわたって続いた名家です。江戸時代には、村上藩の支配下にあった味方組8ヵ村(味方、白根、板井、木場、黒鳥、北場、亀貝、小新。合計約8,000石)を束ねる大庄屋を代々務め、年貢収納の取りまとめや藩からの命令伝達はもちろん、藩から与えられた警察・裁判権をも行使していました。笹川家は、河川改修や用排水路の開削にも尽力し、水害の多かったこの地域での新田開発に貢献してきました。
笹川家の敷地は、東側正面が中ノ口川、西側裏面が味方江(あじかたえ)に面し、近郷における用排水と水運の要地にあります。敷地の広さは、周囲の堀を含めて約6,000坪(20,000㎡)で、中央に約340坪(1,122㎡)の住宅が建っています。敷地のカミテ(上流側)に庭園を築き、シモテ(下流側)には、米蔵や雑蔵などの付属屋を配置しています。
現在の主屋は、文政2年(1819)6月8日に全焼した主屋に代えて、文政9年(1826)までに7年の歳月をかけて再建したものです。棟梁は村松町(現五泉市)の小黒杢右衛門(おぐろもくうえもん)です。なお、表門は火災をまぬがれ、天正年間(1573-1591)と推定される建築当時の姿をとどめています。昭和24年(1949)に表門、表座敷及び台所、居室部、奥土蔵、雑蔵、文庫が国の重要美術品に認定されました。そして、昭和25年(1950)に文化財保護法が制定されると、昭和29年(1954)に改めて重要文化財に指定されました。昭和45年(1970)9月に公有化され、その年から一般に公開されています。
旧笹川家住宅は、日本でも有数の規模を持つ、近世後期の大庄屋の住宅です。とくに、表門を入ってすぐに広がる前庭の眺望、太い柱や大きな建具を使った表座敷、居室部に見られる土庇(とびさし)や通しの障子欄間、裏門から続く道沿いに建ち並ぶ土蔵群は、いずれも雄大さと雪国らしさを兼ね備えています。そして、屋敷構えから欄間の紋様まで、一貫して水が主題となっています。このように水と米を中心として、この地域の発展を主導した「豪農」の気概を、今に伝える貴重な事例となっています。
出典:
『重要文化財旧笹川家住宅解説書』
提供元:新潟市総務局国際文化部歴史文化課
画像提供元:
新潟市役所 観光物産課