愛宕神社境内、はるかに佐渡を見わたす小高い丘に、一基の歌碑が建っております。この歌碑が寺泊の遊女初君の歌碑です。
伏見天皇の御代、永仁六年(一二九八)時の権中納言藤原為兼卿は、幕府の執権北条貞時に陰謀の疑いありとして捕えられ、はるばる佐渡へ遠流の身となりました。
寺泊の港に風待ちのため滞在すること一ヶ月余、この間為兼卿のつれづれを慰めるためにお仕えしたのが、当時才色兼備をうたわれた遊女初君でした。
佐渡へ出発の朝、為兼卿は尽きぬ名残りを惜しみつつ、愛する初君に自分の気持を
逢うことを
またいつかはと
木綿たすき かけしちかひを
神にまかせて
と詠んだ一首を贈りました。涙をこらえつつ、じっとこの歌を手にしていた初君は、やがてハラハラと涙を流しつつ
もの思い こしじの浦の白波も
たちかえるならひ ありとこそきけ
と一首を詠んでおかえししたのです。初君の歌の意は、寄せては返す日本海の白波の如く、いつの日にか必ず貴方は許されて帰ってくることでしょう。私は、心からその日の来るのを肝に銘じて待っていますと、彼女の切々たる心情を詠んだものです。
こうして、涙ながらに佐渡へ渡られた為兼卿は、五年後に許されて都へ帰り、まもなく大納言に昇進し、伏見院の命により正和二年(一三一三)に勅撰の「玉葉和歌集」を完成しました。そして、初君のこの和歌を選び、「為兼佐渡国へまかり侍りし時、越後国てらどまりと申す所にておくり侍りし」と記し「遊女 初君」として収録したのです。
出典:長岡市寺泊支所地域振興・市民生活課
提供元:長岡市寺泊支所地域振興・市民生活課
画像提供元:長岡市寺泊支所地域振興・市民生活課