昭和20年8月1日は、長岡市民が永遠に忘れることのできない日です。
太平洋戦争末期、長岡市上空にB29が来襲。126機による波状攻撃は1時間40分におよび、旧市街地のほとんどを焼きつくしました。
これにより尊い1460余人の命が消え、6万人もの人々が家を失いました。
長岡市では、この悲しい日を長岡市復興への意義ある日とするため、1年後の昭和21年8月1日に「長岡市戦災復興祭」を開催しました。
これが市民の共感を得て年々盛んになり、昭和26年からは「長岡まつり」と名前を変えて現在に至っています。
歴史と伝統の長岡花火
長岡花火の歴史は古く、長岡藩十代藩主牧野忠雅の時代、天保11年(1840)に川越移封の命が下り、翌年それが沙汰やみになったことを祝って「合図」を打ち上げたのがその発祥ともいわれています。本格的な花火は明治12年9月14日と15日の2日間、千手町八幡様の祭りに長原などの遊廓関係者がお金を出しあって、千手八幡社裏手で4寸、5寸、7寸をあわせた花火350発を打ち上げ、これが最初の花火大会と伝えられています。その後玉の大きさも尺玉、尺2寸玉の大玉が出現。さらには仕掛け花火や水中花火も見られるようになり、花火技術の向上と新しい花火の開発が進められました。
明治後期には堤防沿い「桟敷」の設置、長岡煙火協会の設立など、長岡花火の基礎が確立されました。大正に入ると花火大会も全市的な催しとなリ、玉の大きさも大正6年に二尺玉、15年にはついに正三尺玉が登場、人々の度肝を抜きました。大正末期から昭和初期にかけては長岡花火の一大発展期で、全国的にも広く知られるようになります。しかし昭和12年を境に時局は急速に戦争へと傾き、翌年には花火大会も中止となリ、終戦を迎えます。
戦後の花火大会は昭和22年8月1日、2日「長岡市戦災復興祭」の名で復活。翌年からは8月1日を戦災殉難者の霊を慰めることに重きを置くことにし、花火は2日、3日に変更。さらに26年からは「長岡まつり」と名称を改めると同時に、正三尺玉の打ち上げが復活しました。
出典:
『長岡市ホームページ』
提供元:長岡市大手通分室観光課
画像提供元:
長岡市大手通分室観光課