南蒲原郡田上村(現田上町)田巻三郎兵衛の三男に生まれ、長じて寺泊の五十嵐家を継いだ人です。
幼くして、藍沢南城について学び、皇典を修め、また、長岡藩士篠原某を聘(へい)して剣道に精進したといわれます。性剛直で敬神尊王の念に篤く、戊辰の役では、寺泊の窪沢円一、脇屋志喜武、外山友之輔、柳下安太郎等と五人で勤皇を志し、三月二十四日奮然として郷里を出ました。松之山より直江津に出て、同志十数人と合流し、糸魚川を経て信州松本に至り、中仙道を通って上洛をはかりました。たまたま美濃国(岐阜県)十三嶺で奥羽鎮撫副総督三位沢卿の家令、近藤泉等に遇い、一隊は西京に入り、伊織は一隊をひきいて会津(福島県)へ向かいました。仙台へ到着してから沢副総督に謁見し、荘内(山形県)征討を命ぜられ、各地に転戦、奥羽の乱を平定して京都に凱旋しました。
翌明治二年に至り、京都に滞在中、大村益次郎暗殺の党に加わり、同年十二月二十九日に斬首の刑に処せられました。時に享年二十九歳、故郷寺泊の妻や二児を案じながらの最期でした。
さて、伊織はなぜこのような大事件を起こしたのでしょうか。当時は、明治の新政がわずかに緒についたばかりで、新旧思想の衝突混乱は、今日推定する以上のことであったと思います。暗殺に加わった同志たちは、熱狂的な国粋論者であり、強烈な攘夷論者でした。大村益次郎が意図するフランス式兵法では、せっかく神威を輝かした皇道が衰退し、人心が浮薄になり、ついには救いようのない事態に、というのが彼等の心配であったのです。
伊織は今、古里の海を見下ろすゆかりの台地に、波乱万丈の生涯をわが家の栄枯盛衰になぞらえながら、寂滅為楽の眠りについています。
出典:長岡市寺泊支所地域振興・市民生活課
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