田上には田巻姓の二家の豪農があった。それぞれ代々七郎兵衛、三郎兵衛を名乗り、地元では七郎兵衛家を原田巻、三郎兵衛家を本田巻と呼びならわしていた。原田巻家は、下田の豪農・五十嵐氏の末流である本田巻家次男で、安永三年(1774)に没していた七郎兵衛を中興初代とする。四代目、五代目の幕末期には石高二千六百、面積で約千三百町歩の大地主に発展した。
椿寿荘はその原田巻家の広大な離れ座敷である。椿を長寿の霊木とした、中国の故事にならって名づけられたものという。建坪は約百四十坪で、約八百八十坪の敷地に建つ。明治三十年(1897)、当時日本三大名人の一人とうたわれた、富山県井波の宮大工松井角平を棟梁に招いて構想、資材調達にとりかかり、大正三年(1914)から七年(1918)の約三年半の歳月をかけて完成した。材料は吉野杉、木曽檜、会津欅など全国から銘木を集める贅を凝らし、釘類を一本も使わず、寺院様式を取り入れたその姿は重厚な趣をかもし出している。特に畳敷二段廊下は豪快で、十年間の打通しの露縁の庇を支える丸桁は吉野杉の一本物、無節・本末なしの銘木で、海路、信濃川を遡らせて運んだものである。
庭は、京都の庭師広瀬万次郎の手になるもので、京風の枯山水。三の間、二の間、上段の間と続く座敷に面して主庭が設けられ、仏道の理にかなった立派なものである。奥の五重塔の石組みは、須弥山を表したものと言われる。四季それぞれに趣を変えるが、秋、紅葉の梢越しに望まれる高床の奥次の間と庭とのコントラストは、陶然とするほどの美しさである。また、主庭と反対側にある泉水の中庭の石組みも卓越しており、前庭のたたずまいとともに見事なものである。
出典:
『越後蒲原豪農 田巻邸 椿寿荘』(パンフレット)
提供元:田上町役場企画商工課田上町観光協会