承久の乱の後、佐渡へ遷流になった順徳上皇を偲び、故本間建四郎氏ら町の有志の篤志によって、大正十一年に建設されました。
この巨大な碑面には、漢文で長い文章が刻まれており、要訳すると次のようになります。
「嗚呼 承久の事またこれをいうに忍びない、三上皇は海島に遷され(後鳥羽上皇は隠岐、土御門上皇は四国、順徳上皇は佐渡)侍臣は少く記載は伝わらず………帝此の地に御着の頃はたまたま晩秋、風濤険悪、よって行宮を造りご滞留が数月間、翌春に至り佐渡に幸せられるという………行宮の跡、幸いに存し、以って今日に至り、海を隔てて真野の山陵と相対し、帝の御たましいが此所に留まり給うのではなかろうか、敬慕、哀痛のきわみである。草の茂りにまかせ、湮滅させることがあってはならない………」
これは、明治四十年勅選議員文学博士の重野安繹先生による漢文です。掲額は有栖川宮威仁親王より賜り、日下部鳴鶴翁の書で、陸前石の巨石に刻した後、はるばる東京秋葉原駅より貨車で信越線経由直江津駅へ送り、そこから船で寺泊港に運びました。設計は伊藤工学博士によるものです。
石碑の瑞石垣は、下の台座から上の手すりまで、御影石一本をくり抜いた石でできており、いちだんと碑の尊厳をなしております。
順徳上皇が京都から寺泊まで、幾山河の難路をどのように越えてお着きになったかは、文献には何も伝えられていません。五十嵐家では「武兵衛屋敷のうち平なる所に行宮をしつらえ申し候」として、邸内に菊の紋章の幕を張りめぐらし、都菊を植えて、手厚くおもてなしをしたと伝えられています。
上皇はしばらくここにご滞在の後、断腸の思いで佐渡へ渡られました。時に御年二十五歳でした。
出典:長岡市寺泊支所地域振興・市民生活課
提供元:長岡市寺泊支所地域振興・市民生活課
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