ここは、順徳上皇の御神霊を奉祀する神社です。仁治三年(一二四二)九月一二日、上皇崩御の悲報を聞いた五十嵐家の当主武兵衛は、旧行在所の脇に上皇が葬られた佐渡の真野御陵(まのごりょう)と相対す形で、小さな祠を建てました。その後諸行無常、盛者必衰の理(ことわり)のままに五十嵐家が没落した時、膨湃と御遺蹟保存の声が揚がり、有志の浄財で聚感園(しゅうかんえん)として整備されました。そして、大正十一年には「御遺蹟碑」と「御製碑」が園内に建立されました。
しかし、上皇をお祀りする神社の建設は、神殿・拝殿の設計書はできたものの世柄が悪く、昭和十五年にようやく神殿のみが建ち、越之浦神社と命名されたのです。この時、園内の下にあった「御製碑」を神殿の脇に移転しましたが、碑には三首の歌が刻まれています。
たのめすはつらきならひと思はまし
なかなかなりや松に吹く風
露も袖にいたくなぬれそ秋の夜の
ながき思ひは月に見るとも
月見ても秋のあはれはあるものを
しづ心なくうつころもかな
越之浦神社と地続きに法福寺という寺があります。ここに良寛と二つちがいの妹むら子の墓があります。むら子は出雲崎の橘屋から寺泊の庄屋外山文左衛門に嫁ぎ、良寛が寺泊や国上に住んでいた頃、衣食の世話など兄の面倒をよくみたと伝えられています。
托鉢に出ては「味噌少々賜りたく候」と一筆書き置いたり、「野積の海苔を少し賜われ」と歌の置手紙をしたり、洗濯物があまり強く打つと着物が弱るなどの口上書を届けたり、親しい兄妹の関係がよくわかります。良寛が長く寺泊近辺に住んだのも、妹むら子のやさしい心遣いがあればこそなのです。
むら子は兄良寛に先立って、文政七年(一八二四)六四歳で亡くなりましたが、その墓前には良寛思慕の人たちの参詣が後を絶ちません。
出典:長岡市寺泊支所地域振興・市民生活課
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