大正12年7月、本屋を営む北詰幸三郎・ミヨの三男として新潟県三島郡塚山村塚野山(現 長岡市塚野山)に出生されました。村一番の声自慢であった父の影響もあって子供の頃から歌のうまい少年でありました。
13歳で上京、米屋、製麺所、魚河岸で働くかたわら、16歳で日本浪曲学校に入学、南篠文若の芸名で麻布六本木の寄席・新歌舞伎座で初舞台を踏み、一枚看板の座長として全国巡業の活躍を開始されました。
昭和19年出征、満州(現 中国東北部)で終戦を迎え、その後シベリア抑留の辛苦を経験されました。厳しい労働の合間に浪曲・演劇・歌を創作し演じた4年間は、自分にとっては人生の道場であったと述懐されています。 帰国後浪曲家として復帰、昭和27年結婚されたゆきさんの三味線で浪曲2人旅をはじめられた。その中で「大衆芸術は浪曲だけでない。今、大衆が喜び、待っているのは歌だ。」と歌に人生を賭けることを決意、浪曲の仕事を全部断って歌のレッスンに情熱を注がれました。
昭和32年「チャンチキおけさ」でデビュー、和服姿の男性歌手一番手としての三波春夫の誕生でありました。以後、「雪の渡り鳥」、「東京五輪音頭」「世界の国からこんにちは」長編歌謡浪曲「俵星玄蕃」と立て続けに大ヒット、国民的歌手としての地位を不動のものとされました。更に歌藝の道に精進され、日本レコード大賞特別賞、同企画賞、文化庁芸術祭優秀賞を受賞されました。
昭和60年には旧越路町が名誉町民の称号を贈りました。翌61年に紫綬褒章を平成6年には勲4等旭日小綬章を受章されました。
平成13年4月14日逝去。同日新潟県民栄誉賞が贈られました。
「お客様は神様です」の名台詞とともに国民的歌手として多くの人々に親しまれ、日本の心を歌いつづけた三波春夫氏の明るく済んだ歌声は、国民の皆さんの心の中にいつまでも響きわたるものと確信をしております。
ふるさとを愛し、郷土発展に尽くされた数々のご功績を称え、三波春夫氏を敬仰する町民の皆さんや全国のファンの皆さんと、関係各位のご協力を得てここに銅像並びに歌碑を建立し、その遺徳を広く永く伝えるものであります。
出典:
『長岡市ホームページ』
提供元:長岡市大手通分室観光課
画像提供元:
長岡市大手通分室観光課