弁慶の手掘井戸(べんけいのてぼりいど)

源義経は、兄頼朝の命を受けて一の谷、屋島、壇の浦の合戦で平家を滅ぼし、大きな戦功を立てました。しかし、逆に兄頼朝に疎まれ、追手をかけられて、弁慶以下わずかの手兵を従えて都落ちし、奥州平泉の藤原秀衡を頼って、身の危険にさらされながら、北陸路を奥州へ奥州へと逃げて下って行く様子が”義経記”にも伝えられています。
その道中、義経一行は海上で遭難し寺泊へ漂着、疲労しきっていたので土地の豪族五十嵐邸へ身をよせ、幾日間か逗留したと伝えられています。五十嵐氏は人々の目を避けるために、後庭にあった浴室にかくまい、従者の弁慶が義経の手洗いや洗顔の用にとわざわざその裏に井戸を掘ったと伝えられています。
江戸時代の天保年間に漢学者の亀田鵬斎(ほうさい)がこの五十嵐家を訪れたとき「弁慶井泉の詩」をつくられました。

出典:長岡市寺泊支所地域振興・市民生活課
提供元:長岡市寺泊支所地域振興・市民生活課
画像提供元:長岡市寺泊支所地域振興・市民生活課

所在地

長岡市寺泊二ノ関2725

お問い合わせ先

長岡市寺泊支所地域振興・市民生活課(電話0258-75-3111)

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投稿者: 新潟県文化課
掲載日時: 2015年4月12日 16:14

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