弥彦村の南端、大字麓地内の要害(標高246.4m)に残る古城は、戦国時代に「黒滝要害」とよばれ、北陸道の軍略上の要として重要な役割を果たした守護上杉氏及び後上杉氏直属の要塞であった。「永正の乱」「天文の乱」「御館の乱」「遺民一揆」など越後の覇権をめぐって繰り返される動乱の度ごとに黒滝要害の攻防が行われたことがこれを裏付けている。「御館の乱」を克服した上杉景勝は、春日山城を主城とする支城網を越後全域に布置し強固な城番制度を確立するが、黒滝城は依然、中・下越の交通上の結節点をふまえた屈強の規模の大きさ、施行の徹底振ぶりなどがそれを物語っている。
慶長2年(1597)上杉氏の会津移封に伴い廃城となった。
黒滝城の全体規模は大きく、西蒲原郡内では岩室村の天神山城と双璧をなし、蒲原地方全体の中においても屈指の存在といえる。中世城郭共通の姿をもっており、平時の政庁兼居住地にあたる館と家臣団の居住区(根小屋)と、有事の際篭城するための山城(要害とよぶ)に本城を備え、西方の剣ヶ峰(292.4m)に出城を備えるという二本立てからなっている。本丸は「天神曲輪」とよばれる長さ約30m、幅約12mの狭長な曲輪で周りの曲輪より10m高く屹立しており、ほかに吉伝寺曲輪と大蓮寺曲輪をはじめ
多くの曲輪が存在する。水脈は桜井の井戸、竜ヶ沢の泉、鷲沢の井など豊富である。
出典:『弥彦村の文化財』
提供元:弥彦村役場産業振興課観光商工係