
file-117 姿を変え、今へ受け継ぐ角兵衛獅子(前編)
江戸時代に大ヒット
角兵衛獅子は、江戸時代に越後の月潟村(現・新潟市南区月潟)を本拠とし、諸国を歩いて踊りや軽業を披露し、大道芸として人気を誇りました。その人気から、文化8年(1811)に歌舞伎舞踊「越後獅子」という舞踊劇に仕立てられ、江戸の中村座で三世中村歌右衛門が初演。そこには新潟との不思議な縁が隠されていました。
大道芸から歌舞伎へ
角兵衛獅子の里、月潟村

郷土物産資料室には、かつての角兵衛獅子の舞が描かれた当時の看板や衣装が展示されている(新潟市南区)

囃子方は大人で、大太鼓・小太鼓・笛の3人。太鼓を担当する人が口上を述べ舞を進行させる/郷土物産資料室
いずれにせよ、その発祥は古く、宝暦6年(1756)撰の「越後名寄(なよせ)」や文化12年(1815)撰の「越後野誌」に、すでに『いつ始まったのか定かではない』と記されているほど。

披露される舞の種類や一座の名前が書かれた興業の宣伝ビラ。神社仏閣などでも開催された/郷土物産資料室
その人気に目を付けた人がいました。歌舞伎の三世中村歌右衛門です。ライバル三世坂東三津五郎への対抗策として、角兵衛獅子を題材にした踊りを作らせたのです。
江戸と新潟を結ぶ市山流
江戸時代後期の歌舞伎界では、三世坂東三津五郎と三世中村歌右衛門が人気を二分していました。ちょうど、一人の踊り手が早変わりをして複数の役を踊り分ける変化舞踊が流行しており、市村座で三津五郎が踊った七変化が大当たり。それに対抗するため、歌右衛門も急いで七変化を作らせます。一説には一晩で作らせたともいわれるほどのスピード製作でした。文化8年(1811)3月、中村座で「遅桜手爾葉七字(おそざくらてにはのななもじ)」を上演し、みごとに三津五郎の人気を圧倒。その4曲目が「越後獅子」、つまり角兵衛獅子の舞をもとに考えられたものでした。
振り付けを担当したのは、初代市山七十郎(しちじゅうろう)。市山流は、上方の歌舞伎役者を祖に持ち、初代が江戸に移ってからは歌舞伎舞踊で名声を挙げた、由緒ある流派です。この後の三世のときに新潟に拠点を移し、以来200年に渡り、古町芸妓に日本舞踊を教え、新潟の花柳界を支えることになるのです。
現在の宗家、市山七十世(なそよ)さんが活動している、新潟市古町の稽古場を訪ねました。
振り付けを担当したのは、初代市山七十郎(しちじゅうろう)。市山流は、上方の歌舞伎役者を祖に持ち、初代が江戸に移ってからは歌舞伎舞踊で名声を挙げた、由緒ある流派です。この後の三世のときに新潟に拠点を移し、以来200年に渡り、古町芸妓に日本舞踊を教え、新潟の花柳界を支えることになるのです。
現在の宗家、市山七十世(なそよ)さんが活動している、新潟市古町の稽古場を訪ねました。

「越後獅子には、基本的な踊りの動きが入っているので、子どもに教えるにはいい演目なんですよ」/市山七十世さん

「越後獅子」の初演時の番付に市山七十郎の名が記されている/国立音楽大学附属図書館 竹内道敬 寄託文庫

築150年の自宅内の稽古場にて。「戦争中は、舞台の板を軍隊に接収されないよう、外して疎開させていました」
後編では、「越後獅子」を受け継いだ若い歌舞伎役者と、郷土芸能として「角兵衛獅子」を受け継いだ子どもたちを紹介します。
■ 取材協力
角兵衛獅子保存会
郷土物産資料室/新潟市南区 月潟農村環境改善センター内
市山七十世さん/市山流宗家 2018年2月に七代目市山七十郎を襲名