
file-122 北前船とともに生きる。(前編)
北前船を支えた人々
江戸時代半ばから明治30年代にかけて、大阪と北海道を結んだ北前船。その役割は単に商品を運送するだけでなく、寄港地で商品を売買する「買積船(かいづみせん)」という独特の商法で利益を上げる、いわば動く商社のような存在でした。越後・佐渡には多くの寄港地があり、物流の中継地や造船の拠点として、物資や人、情報が集まっては、各地で独特の文化や産業を生み出していきました。
北前船として日本海を走ったのは、主に弁財船(べざいせん)と呼ばれる和船です。堅牢な船体、波を切り裂く鋭い船首、そして何よりも特徴的な巨大な一枚帆。こぎ手がいなくても帆走できるため、千石以上を積み込める大型船でも10数人で運航することができました。後に、造船技術や操舵技術が向上すると、北海道・大阪間を12、13日ほどで走ったといいます。その船を支えた人々に注目します。

「航海図」北前船の航路と主な寄港地。この航路を通じて、日本各地がつながっていた。
宿根木は日本海の造船所

安政5年(1858)に宿根木で建造された「幸栄丸」。512石積みの中型船だった。/佐渡国小木民俗博物館

平成10年(1998)に「幸栄丸」を復元し、地元の白山神社にちなんで「白山丸」と名付けた。/佐渡国小木民俗博物館

旧宿根木小学校卒業の高藤さんは、北前船で伝わった町人文化を含む、佐渡の歴史的文化の保存にも尽力。

千石船産業の基地として栄えた宿根木。総二階建ての家々が密集する独特の町並みが、観光客をひきつける。
しかし、鉄道や蒸気船、通信の発達などを背景に、明治18年(1885)に政府は500石以上の和船の建造を禁止します。やがて宿根木の造船産業は廃れ、船大工は技術を必要としていた新天地・北海道へ出稼ぎに行き、そのまま移住する人も。集落には、船造りの技術を応用して建てられた町並みが残りました。
船乗りを輩出した糸魚川

「大船主の伊藤家や大野家を生んだ糸魚川は、船頭や船乗りも多かったと伝えられています」吉田さん。

北海道江差の関川家所有「仕切状」。北前船の船頭が、新潟で米を買い入れたことを示している。/江差町教育委員会蔵
糸魚川の歴史に詳しい吉田信夫さんにお話を伺いました。「糸魚川には、大規模経営を行っていた船主が二家ありました。江戸後期に9隻を所有していた相沢源右衛門家と、明治中期に6隻を所有していた伊藤助右衛門家です。たとえば伊藤家所有の伊栄丸は、天保10年(1839)の3月から8月までの間に、新潟と瀬戸内を1往復、新潟・北海道・大坂を1航海し、砂糖や塩、蝋(ろう)、米を売り買いしたと資料に残っています」
船に乗っていたのは、船の最高責任者「船頭」を筆頭に、航海士「表(おもて)」、水夫長「親父」、事務長「知工(ちく)」の三役と、一般の船乗り「水主(かこ)」、炊事・雑用係「炊(かしき)」で合計10~15人。航海中は夜も6時間交代で監視につき、港に着いても船頭以外は船中泊という、厳しい仕事でした。荒海では難破の危険もあります。それでも希望者は後を絶ちませんでした。「船頭でも1年で現在の20~30万円と、彼らの給料は安いんです。ただし、船頭には個人の商品を積む権利が与えられ、その売買の利益を自分のものにできました。他の乗組員には、船の売上げの5~10%を「切出」というボーナスとして分配。単純に計算すれば、千石積みの北前船なら全売り上げは千両、その10%の百両(現在の約1,000万円)が分配されるのですから、貯金していずれ自分の船を持つことも夢ではない。人気があるのも当然です」
しかし、雇用の条件は、船主と同じ村の出身者。それ以外は保証人が必要でした。動く商社とも言われ、各寄港地で商品売買をし、大きなお金が動く北前船。安全で迅速な航海と利益増大を図るためには、身元のしっかりした有能な人材が必要だったのです。また、同じ地域の出身者だからこその結束力もおおいに役に立ちました。
船頭をもてなす新潟町

「船を介して集まってくる人々をもてなし、仕事を円滑に進めようという考えが、新潟のもてなしの文化の底流としてあるのでは」若崎さん。

江戸時代の風俗を記した「新かた後の月見」。この場面には3月18日の白山祭礼に参詣した遊女たちの様子が描かれている。/文政2年(1819)日和山五合目蔵

新潟の素材をふんだんに使った豪華な宴会料理を復元/新潟市歴史博物館みなとぴあ
こうして、廻船問屋、船大工、船道具を作る人、さらには船頭などをもてなす芸妓たちなど、新潟には北前船を支える多くの人々が集まり、明治6年(1873)の段階で、新潟町は人口3万人を超える町としてありました。
■ 取材協力
高藤一郎平さん/佐渡博物館 指導員
吉田信夫さん/糸魚川市文化財保護審議会 会長
若崎敦朗さん/新潟市歴史博物館みなとぴあ 学芸課資料管理担当課長