file-122 北前船とともに生きる。(後編)

  

北前船が運んだ文化

 南の民謡が北へ、西の神様が東へ、北の産物が西で伝統に――それら点と点を結んだのは北前船でした。一航海で千両、現在の価値では1億円ともいわれる利益を生み出した北前船。その恩恵は、経済効果だけではありません。北前船が運んだ物資や文化、情報が、それぞれの寄港地で人々に受け入れられ、少しずつ姿を変えながらその土地の文化として根付き、新しい芸能、祭り、食文化を生み出しました。それらのルーツと進化の過程を紐解きます。

距離と時代を超えて伝わるもの

船乗りが伝えた民謡

 古くから海運の中継地であった牛深(現・熊本県天草市)。そこで生まれた民謡「ハイヤ節」は、北前船の船乗りによって全国に伝えられました。新潟でも、旋律や歌詞を変えながら、佐渡の小木では「佐渡おけさ」に、寺泊(現・長岡市)では「寺泊おけさ」になり、地域で親しまれてきました。
「寺泊おけさ」に北前船の船乗りが登場することを、長岡市立科学博物館の加藤由美子さんに解説していただきました。「『厚司、縄帯、腰には矢立ヨ』という歌詞がありますが、これは刺し子の作業着を着て帯代わりに縄を締め、筆記用具を備えるという、まさに北前船の船乗りスタイルです」。さらに、「沖に停泊している北前船と港の間を行き来する『伝馬船』、対岸の寄港地である『佐渡へ、八里のさざ超えて』という歌詞もあり、北前船と寺泊の人々の関わりが深かったことが伝わってきます」。かつては、町内でこの民謡を歌いながら踊る「流しおけさ」があり、地域の祭りでも踊られてもいましたが、今は姿を消してしまいました。

 

米大舟

酒田市から招待され、酒田民俗芸能公演会で米大舟を披露する潟町米大舟保存会の皆さん。/潟町米大舟保存会蔵

 民謡では、上越市の「米大舟(べいだいしゅう)」も北前船が生んだ一曲です。北前船は当時、船の種類から弁財船(べざいせん)と呼ばれており、この民謡の名は「弁財船に乗っている人々=弁財の衆」がなまって「べいだいしゅう」になったという説もあります。原曲は、酒田(山形県酒田市)の酒田節です。「米大舟」誕生のエピソードをまちおこし直江津の代表、佐藤和夫さんに伺いました。

 

佐藤さん

直江津の歴史や文化を掘り起こし、今に伝える活動、町歩きの企画などを手掛けている佐藤さん。

「享保年間(1716~1736)に今の大潟区が凶作に見舞われたとき、酒田出身の北前船の船頭が米を集めて船で運んできてくれたのです。助けてもらった大潟の人々が開いたお礼の酒宴で、その船頭が歌い踊ったものが広まったと言われています。『酒田小屋の浜 米ならよかろ』というフレーズに、酒田とのつながりが確認できます。俵を担ぐような動作もあり、はきはきとした男踊り。覚えやすいですよ」

 

棟方志功

友人に誘われて見た「米大舟」の踊りに感動し、棟方志功はその躍動感を作品に残した。/樹下美術館蔵

 かつては盆踊りとしても踊られ、多くの人を魅了。版画家の棟方志功も上越市の友人を訪ねた際にこの「米大舟」を見て感動し、作品に残しています。海岸沿いの町々で親しまれており、今も夷浜や黒井、大潟区で伝承されています。そこでは北前船に関わるこの貴重な郷土芸能を子どもたちに伝えようという活動が行われています。

 

航海の安全を祈る神事

ちとちんとん

毎年10月、宿根木の鎮守の祭礼で奉納される大々神楽「ちとちんとん」/佐渡国小木民俗博物館蔵

 北前船の造船が盛んだった佐渡の宿根木では、10月の鎮守の祭りで大々神楽「ちとちんとん」が奉納されます。踊りに先立って述べられる祭文によれば、この踊りは、潮の流れの速い、角島(山口県)を通過するときに、初めて航海に出た若者が安全を祈願して神に奉納したもの。「関門海峡は北前船にとっては最大の難所、神に祈らずにはいられなかったのでしょう」と、佐渡博物館指導員の高藤さん。後に子孫繁栄や商売繁盛の願いも込められてユーモラスな踊りになり、地域の人たちに愛される郷土芸能になりました。

 

 新潟市では、8月上旬に「新潟まつり」が開催されます。「これは、住吉祭、商工祭、川開き、開港記念祭の4つの祭りが統合されたものです。その中の1つである住吉祭は、越後の廻船問屋が航海の安全を守る住吉の祭神を祀り、家業が成功したことを契機に、その後、町中で信仰されるようになって、享保11年(1726)に行列を組む祭りとして行われたと伝えられています」と、新潟市歴史博物館みなとぴあの若崎敦朗さん。今でも「新潟まつり」では、住吉行列と、みこしを御船に載せて信濃川を東から西へとお渡しする「水上みこし渡御(とぎょ)」が行われ、湊町新潟の歴史を感じることができます。

湊まつり・・・祭りの列

湊町として栄えた新潟では、華やかな祭りが生まれ、みこしや山車(だし)の行列が町を練り歩いた。/「蜑の手振り」(湊祭りの図) 嘉永5年(1852) 新潟市歴史博物館 みなとぴあ蔵

 

笏谷石

上越市の泉蔵院には、笏谷石で作られたお地蔵さまが並ぶ。産地の福井で加工されて運ばれたと考えられている。

 北前船は神社や仏閣に必要なものも運んできました。ほのかに緑色を帯びた、福井原産の笏谷石(しゃくだにいし)です。「上越市では、八坂神社の土台、泉蔵院の地蔵などの石造物で見ることができます」と、上越エリアで笏谷石の石造物を調査するフィールドワークを行っている佐藤和夫さん。「神社や寺で使われることの多い笏谷石は、神聖なものと考えられていたようです。能生のご婦人から伺った話ですが、沖に停泊した北前船から伝馬船に移し替えられると、新しい服に着替えた女性たちが浜に集まってその船を引いたそうです」と、糸魚川の文化に詳しい吉田信夫さんが言います。

 

様々な顔を持つ北前船

 北前船が伝えた文化、生み出した文化について、新潟県立歴史博物館の田邊幹(もとき)さんに伺いました。

 

引き札…嶋屋

新潟町の廻船問屋 嶋吉次郎の引札。「引札」は廻船問屋が取引先に配る広告チラシ。めでたい図柄に自前の北前船を配し、隆盛が感じられる/明治14年(1881)カ 加賀市北前船の里資料館蔵

 寄港地で商品を売買しながら航行する「買積み(かいづみ)」を行う北前船は、寄港地ごとに廻船問屋を定め、定期的に立ち寄りました。「買積みで大きな利益を出すためには相場の情報が必要ですが、それを持っているのは廻船問屋です。情報のやり取りをする中で、人と人との密な関係性が築かれ、商売以外の情報や文化なども伝わっていったのだと思います」

 

 北前船が扱ったものは米や塩、砂糖など多岐に渡り、流通の全貌を把握することは困難です。「北前船が食文化に関わった一つの例として上げられるのは、松前(北海道)で作られた棒鱈が、京都で伝統的な京料理『芋棒』になったこと。考えられるケースは他にもいろいろありますが、資料が残されていないので、伝えたのが北前船とは言い切れないのです」
 江戸時代から明治時代にかけて、日本海を自在に行き来していた北前船。寄港地では、多くの人々が期待を込めて待っていました。波の彼方に帆の影を探し、船が運んでくる様々な宝を、新しい情報を。北前船によって人々は未知なる場所とつながっていたのです。

 


■ 取材協力
加藤由美子さん/長岡市立科学博物館 文化財係
佐藤和夫さん/まちおこし直江津 代表
高藤一郎平さん/佐渡博物館 指導員
若崎敦朗さん/新潟市歴史博物館みなとぴあ 学芸課資料管理担当課長
吉田信夫さん/糸魚川市文化財保護審議会 会長
田邊幹さん/新潟県立歴史博物館 学芸課 主任研究員

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