新潟の地域文化を紡ぎ繋げる 新潟文化物語

  • 文字サイズ
  • 標準

特集

  1. 新潟文化物語HOME>>
  2. 特集>>
  3. file-130 村上から胎内へ 北前船の寄港地、荒川三湊を歩く(後編)

file-130 村上から胎内へ 北前船の寄港地、荒川三湊を歩く(後編)

  

塩谷が挑んだ、北前船交易のためのまちづくり


 荒川の右岸にある塩谷地区には、間口が狭く奥行きが深い町屋や醸造工場など、歴史的な建築物が多く残っています。北前船との交易のために集団移転を決意、現在の地に居を定めて効率的なまちづくりを行った塩谷の取り組みをたどります。

二度の集団移転を経て発展

「塩屋」から「塩谷」へ変身

江戸時代の荒川三湊

現在とは異なる姿を見せる江戸後期の荒川河口/「塩谷港絵図」高泉寺所蔵、画像提供:村上市教育委員会

塩谷の浜

北前船は沖合に停泊、塩谷の浜から小舟を漕ぎ出して荷を受けた。

柏櫓さん

「平成18年(2006)から町を公開し、イベントも開催して町おこしを行っています」/柏櫓さん

 越後平野の北側を横断し、日本海に注ぐ荒川。国土交通省による水質調査で、何度も日本一きれいな河川として評価され、サケやサクラマス、ヤマメ、イワナが生息し、一年を通して釣り人を惹きつけます。その姿は、明治時代後半から繰り返された治水工事によって生まれたもの。かつては、胎内川など数本の川が合流する大河であり、流れるルートも違っていました。荒川三湊の湊町の中で、特に塩谷地区は、河川の変遷と海岸の浸食による様々な影響を受けてきた歴史があります。
 塩谷の発祥の地は、現在の位置より300mほど沖合の海沿いでした。「漁業と塩作りが盛んで、塩炊き小屋を備えていたことから『塩屋』と呼ばれたと鎌倉時代の書物に残っています」と説明してくれたのは、塩谷活性化推進協議会の柏櫓(かしやぐら)洋平さんです。「海岸と荒川の間にあったため、海岸の浸食や荒川の水害の被害を受け、戦国時代には、内陸部を開拓して集団移転。山寄りに移転したので『塩谷』と言われるようになりました」
 その後、塩谷を含む荒川三湊では北前船との交易がスタートします。沖に停泊した北前船へ湊から小舟を出して荷を受けるスタイルでは、海岸や川に近い方が便利です。そこで、住民は150年ほど暮らした場所から、500mほど海岸寄りに再移転を決意。「それが現在の塩谷の位置です。村上藩にお願いをして、享保元年(1716)から十数年かけて、寺も神社も含めて町ごと移動してきたと伝わっています」

 

町並み

番所山には展望台もあり、塩谷の町並みや日本海を一望できる。

マルマス

旧醤油仕込み蔵をリノベーション、ステージでイベント開催も/マルマス

 交易の利便性アップという目的をかなえるため、まちづくりには様々な工夫がされました。海岸線に平行して走る大通りは、荷車や牛車の往来のため広い道幅を確保。「自動車も余裕をもってすれ違えるので今の時代でも便利ですよ」と柏櫓さん。通りの両側には、廻船問屋や商家、神社、寺院、さらに昭和になってこの地の特産品として人気を博した和樽製造、酒・味噌・醤油の醸造工場などが整然と並び、まるで時代劇のワンシーンに入り込んだかのような錯覚にとらわれます。しかし、塩谷の町屋は単なる背景ではありません。歴史ある建物を受け継いで、暮らし、営業をしている人もいるのです。江戸時代と変わらない町では、今も人々の営みが続いています。  

古い湊の新しい取り組み

焼印

ずらりと並んだ塩谷の焼印。各家の軒下でも見ることができる。

中山さん

親子二代で船大工。引退後は北前船の模型和船をはじめ、木工を趣味に/中山さん

和船アップ

細部にこだわった中山さんの力作。町内には、中山さんや野沢さんが製作した模型和船が20隻以上もあるという。

 塩谷ではそれぞれの家の軒下などに焼き印が付けられています。家印(いえじるし)とも呼ばれる、その家独特のマークです。老舗商店などで目にすることこそあれ、一般の家でこれほど多くの焼き印が残っているのは稀なこと。「これを見ると、本家と分家のつながりがわかったり、同じ苗字でも区別ができたりするので、便利なんですよ。せっかく残っている印だから、統一した表示をしようと整備してきました。地域の子どもたちに説明すると興味を持ちますし、観光に来られる方々にも好評です。こうした伝統は次代にも伝えていきたいですね」
 一軒の家の前に、北前船を思わせる模型和船が飾られていました。伺えば、制作したのは、塩谷に暮らす中山喜好(きよし)さん。船大工として働き、退職後に模型和船作りに取り組んで、これまでに10隻以上を製作。地域の展示会に出品したり、知人に贈ったりしてきました。「塩谷は北前船で繁栄した町だから、その船をいつか作ってみたいと思っていました。我流なんですが、全てを一人で作りました」。仕事で培った技術を駆使し、甲板や乗船口は本物同様に開け閉めでき、帆も操れる、実に精巧な作りです。「手元に残したのはこれだけ。船名には家内の名前を付けました」と、にっこり。

 

塩谷の皆さん

老いも若きもみんな参加で町おこし/塩谷活性化推進協議会の皆さん

海老江の取り組み(手配中)

海老江北前船祭りでは、俵の神輿が登場。米を貯蔵した「お蔵」から湊まで、代官が先導して米俵を運搬した様子を再現している。

  塩谷の東端には標高約15.3mの小高い山があります。「新潟県一低い山だそうですよ」と、柏櫓さん。塩谷は江戸時代に村上藩領となり、荒川三湊に出入りする船の取り締まりのための番所(監視所)が村上藩によってこの山に設けられました。塩谷は村上藩にとって重要な交通の要衝だったのです。時代を経て、その跡地には稲荷神社が立てられ、ここにも北前船の船絵馬が奉納されています。自ら製作した模型和船が地元・塩竃神社に飾られている野沢周二さんが残したものです。今もここを番所山と呼ぶ人も多いといいます。塩谷の人たちにとって北前船は身近な、そして誇らしく、語り続けたいものなのでした。

 荒川三湊のもう一つの湊町、海老江地区は、荒川の左岸の桃崎浜の上流部にありました。当時は、荒川と胎内川に面しており、舟運が盛ん。ここは他の二湊と違い、幕府領であり、その年貢米の積出港として栄えました。明治20年(1887)の治水工事で胎内川の水量が減り、湊としての機能を失ってしまいましたが、日本海の風雨をしのぐ下見板張り、本を伏せたような三角形の切り妻屋根の町並みを残しながら、景観に配慮したまちづくりを推進。湊町として栄えた海老江の歴史を後世に伝えようと、平成25年(2013年)から毎年「海老江北前船祭り」を開催しています。

 

 荒川と日本海を舞台に、水運の要所として繁栄した荒川三湊は、三湊それぞれの役割と特徴を持って、時に競い合いながら、北前船の時代を過ごしてきました。湊としての役割は終えましたが、町並みや産業、地名、そして何よりも人々の心の中に北前船の時代が根付いています。新潟県の北、村上から胎内へ、北前船の寄港地を訪ねてみませんか。懐かしい日本の風景と大きく開けた雄大な日本海が待っています。

 

掲載日:2019/7/25

 

■ 取材協力
柏櫓洋平さん/塩谷活性化推進協議会 会長
中山喜好さん/老人会 会長
会田健次さん/海老江区長
小川 剛さん/村上市荒川支所長

■ info
北前船のまち散策
開催日:2019年10月13日(日)9:00~16:00
概要:村上市(瀬波、塩谷)、胎内市(桃崎浜、新井浜)に残る北前船の痕跡を一斉公開します

特集一覧へ戻る

投稿はこちらから

  • イベントを投稿する
  • 地域文化データベースに投稿する
  • 投稿の仕方(PDF)
Copyright© Niigata Prefectural Government. All Rights Reserve