file-138 西と東が花街で出会う~文化の丁字路(前編)
古町花街は「文化の丁字路」の象徴
北前船の航路と江戸・新潟間を結ぶ三国街道。2本の線は新潟湊で交わり、「丁」の形を描きます。この線をたどって人と物資と情報が新潟にもたらされ、江戸時代から明治時代にかけて新潟は大いに繁栄。客人たちの交流の場、もてなしの場として古町花街が生まれました。
経済の繁栄が花街を盛り上げた
大阪と北海道を結ぶ北前船航路で、米の一大集積地として繁栄した新潟湊。巨大な帆を張った北前船が入港/新潟市歴史博物館みなとぴあ蔵
新潟と群馬の県境にまたがる三国峠は、越後と江戸を最短距離で結ぶ三国街道で最大の難所/史跡佐渡奉行所跡提供、個人蔵
江戸と新潟を結ぶ街道は複数ありますが、『文化の丁字路』構想では、最短で結ぶ三国街道に注目しました」/武藤さん
江戸時代に佐渡金山の金銀を最短距離で江戸に運ぶために整備された三国街道、大阪と北海道を日本海回りで結んだ北前船と呼ばれる商船のルート。その2本の線が交わった新潟湊は、江戸時代の経済の基盤を支える「金」と「米」の流通拠点としてにぎわいました。
「北前船の航路は海のハイウェイ、三国街道は陸のハイウェイ。その二つの結節点ですから、経済が発展しないわけがありません。江戸から明治にかけて、新潟はもっとも豊かな地域だったと言っていいでしょう。実際に、明治26年(1893)の新潟県の人口は166万人、全国1位の大都市だったのです」と語るのは、にいがた文化の記憶館の武藤斌(むとうあきら)さん。「文化の丁字路」の名付け親の一人です。令和元年(2019)に新潟県で開催された国民文化祭、全国障害者芸術・文化祭では、文化の丁字路をテーマに様々な文化活動が展開されました。
「上方や江戸から商人や船乗りが集まり、地元では廻船問屋や豪農・豪商が繁栄しました。そうした人々の交流やもてなしの場として古町花街が生まれ、客人たちをどうもてなすか工夫を重ねて発展していったのでしょう」と、武藤さんは考えています。
古町花街には、北前船の所有者や船頭、豪農や豪商、さらには文人や芸術家も多く訪れてにぎわった/新潟市歴史博物館みなとぴあ蔵
その工夫の一つは、上方や江戸の歌や踊り、料理などを取り入れることでした。新潟で、西や東の都と同じような最先端の芸能や料理が楽しめるということは、客を大いに喜ばせ、古町花街の評判を上げました。なぜそんなことができたのでしょう。
「古くは順徳天皇や世阿弥、日蓮などの貴人が佐渡に流され、都の生活や文化が伝わると、それらを学んで取り入れたように、遠方からもたらされたことに価値を見出し、吸収するという風土が新潟にはありました。それが自分たちのステータスを高めると考えていたのでしょう」と、武藤さんはこうした新潟の精神風土が文化の丁字路を形成していったのだと考えています。
500人の芸妓が迎えた古町花街
古町芸妓たちが越後の総鎮守・白山神社に参詣。豪華な衣裳や髪飾りが花街の隆盛を偲ばせる/新潟市歴史博物館みなとぴあ蔵
「東西から伝わるだけでなく、越後の甚句が江戸で流行ったように、新潟が発信したものもありました」/伊東さん
古町を含めた新潟市中央区エリアは、明暦元年(1655)の町建て(計画的な街づくり)によって築かれました。張り巡らされた堀は道路に変わりましたが、今も往時の街並みの原型を保っています。その一画の古町通8番町・9番町が料亭や待合、置屋が密集する古町花街。度重なる大火で古い建物の多くは焼失しましたが、老舗料亭など昭和の建物は残り、タイムスリップしたような気分を味わうことができます。
みなとぴあ館長の伊東祐之(いとうすけゆき)さんに古町花街の歴史について伺いました。「古町花街は元禄時代にはすでにあったといわれています。その後、北前船でにぎわう中、もてなしが洗練されて、規模もレベルも発展していきました。江戸時代後期に古町を訪れた常磐津の芸人が、芸妓の美しさや着物の豪華さ、芸の深さに感動したと日記に書いているほどです」
この頃、芸妓は500人を数え、京都の祇園、江戸の新橋に並ぶ花街と呼ばれていました。
「お客様に合わせておもてなしの形は変わっても、心の通い合いや精神的なものは変わりません」/行形さん
では、その古町花街とはどのような場所なのでしょう。新潟三業協同組合理事長の行形和滋(いきなりかずしげ)さんによると、「花街を構成するのは、料理を提供する料亭、もてなしの場を提供する待合、芸妓が所属する置屋。その3つの生業が集まって、三業と呼ばれてきました。ですが、現在の古町では料亭は10以上残っていますが、待合は一つだけで、料亭がもてなしの場になっています」
「北前船をはじめ、多くの船が入る湊町でしたから、様々な地域から様々なお客様がおいでになる。そういう環境で、親しみやすく温かい雰囲気が築かれたのだと思います。初めて訪れたのに、10分もすると何回も来たことがあるかのようにくつろげるとおっしゃいます。男性のお客様を『あにさま』、女性の方を『あねさま』と呼ぶことや、『いらっしゃいませ』ではなく『よう来なった』と花街独特の柔らかな表現を使ったりすることも一因ですが、言葉だけでなく、芸妓のもてなしから醸し出される雰囲気によるのでしょう」
「稽古は一生。これだけしたら十分ということはありません。今でも毎日、三味線を弾きます」/福豆世さん
「お座敷では、情緒のある新潟の民謡や甚句が好まれます。一番の人気曲は『相川音頭』でしょうか」/福豆世さん
「お客様に対して、分け隔てなく、オープンに。確かに古町芸妓の気質はそうかもしれませんね」と言うのは、地方(じかた)の福豆世(ふくとよ)さんです。「その半面、動じない心意気というのでしょうか、意気地(いきじ)がありますよ。ごひいきのお客様に金沢や京都、東京のお座敷に呼んでもらったこともありましたが、芸事も衣装も他の地域には引けを取りませんでした」
特に、衣装の豪華さは多くの人を驚かせました。「古町芸妓が京染を好むのは、北前船の影響かもしれません。京都の美意識や技術の高さを知っており、先輩芸妓は競って豪華な衣装を身に着けていました。私はそういう姿に憧れて、先輩方を目標に頑張っていました」
後編では、花街の舞踊と料理に漂う東西の文化の痕跡をたどります。
掲載日:2020/8/3
■ 取材協力
武藤 斌さん/にいがた文化の記憶館 副館長
伊東 祐之さん/新潟市歴史博物館みなとぴあ 館長
行形 和滋さん/新潟三業協同組合 理事長、行形亭11代目
福豆世さん/古町芸妓