
file-37 定期市と雁木通りのまち巡り 今も続く「朝市文化」

六・十の市(ロクトウノイチ:妙高市新井地区)

六・十市には韓流スターのグッズを取り扱っているお店も。

旧新井の中町に祭られている市神社。今では敷地内に遊具などもあり、子どもの遊び場としても親しまれている。
すでに鎌倉時代には関東へ向かう街道沿いで市が開かれていたと言われている新井地区。
その後、江戸時代前に宿場町として栄えていた旧新井の中心である中町通りに市場が移され、現在の「六・十の市」が始まる。当時の新井は物流の拠点として、山間地の品と平場の農村の品、高田・直江津からの品などさまざまなものが集まり、市場を賑わせた。交通量の増加とともに市の位置も移り行き、現在は朝日町で開催されるように。
現在でも季節に応じて、山菜やキノコなどの商品が並ぶほか、マムシや韓流スターグッズなども売られているのも面白い。
中町には現在も市神社があり、食物や市の神様とのいわれがある大市比売命(おおいちひめのみこと)が祭られている。もともと市内の別の神社に祭られていたものを大正時代に移転。今でも市場の商売繁盛を見守っている。
一の日市(イチノヒイチ:上越市柿崎区)
旧柿崎町の中心市街地で開かれている朝市「一の日市」。明治39年(1906)の日露戦争の戦勝記念として東郷元帥の功績を後世に残そうと、名前をもじった「十・五(とうご)市」が始まりと言われている。当時の日本が大国ロシアからの勝利に大いに沸き立ったことがうかがえる。その後、昭和38年8月1日より内容等を変更し、「1のつく日」へと姿を変え、今に続く。
二・七の市(ニシチノイチ:上越市高田地区)

二・七の市にきっかけとなった陸軍第13師団の師団長官舎。現在は上越市大町に移設され保存されている。

二・七の市の様子。
今も多くの買い物客が訪れる。
めぼしい産業をもたない高田の経済は明治期になると次第に衰退。地域振興の起爆剤として軍隊の誘致にいち早く手を挙げる。日露戦争後の軍備拡張の追い風も受け、幾多のライバルに競り勝つかたちで陸軍第13師団の誘致に成功する。
師団設置による人口や税収の増加など、経済的効果は大きく「兵隊に新鮮な野菜を食べさせたい」という軍の要望により、明治43年(1910)10月に現在の本町2丁目で市が始まった。その後、昭和35年から現在の大町に移設され、2と7のつく日に開催されている。
三・八の市(サンパチノイチ:上越市直江津地区)

およそ100年前の様子を物語る写真。直江津駅前にできた「イカヤ旅館」。

商品として並べられるものは、生鮮品から衣料品まで様々。写真は「姫竹」のビン詰め。
明治31年(1898)に直江津駅が現在の位置に移転されると、駅前には西洋風の旅館や土産物屋が進出し、駅前通りが商店街として発達。明治44年(1911)に当時新橋区とよばれていた地域の青年会が土地の商売を盛んにしようと「新橋区青物市場」として始めたのがきっかけ。今ではこの通り自体が「三・八通り」と呼ばれ親しまれている。
浜辺に近い市の通りには、珍しい海産物の加工品を扱う乾物屋や直江津港で揚がった新鮮な魚を扱う店も軒を連ねる。
四・九の市(シクノイチ:上越市高田地区)
「二・七の市」と隣接し、四と九のつく日に開催される「四・九の市」。大正9年(1920)に、地元の有志の発案で始まった「四・九の市」は一時消滅したものの、大正13年の夏に現在の場所に復活。雁木通りの軒先にずらりと並ぶテント。このロケーションは、高田の市ならではの光景だろう。
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