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file-84 越後の瞽女(前編)

  

高田瞽女の歴史

瞽女(ごぜ)とは

  越後瞽女,褄折笠白杖(つまおりがさしろつえ)

褄折笠(つまおりがさ)
旅に欠かせない道具のひとつが、褄(端の部分)を折り曲げたスゲの縫い笠。深くて丸みを帯びていて、夏の陽射しや雨風を防ぐのに重宝しました。日本髪を結っている瞽女たちは、髪をくずさないよう手ぬぐいを被った上から笠を被っていました。

 江戸時代から昭和の初め頃まで、三味線を手に縁のある村から村へ旅して歩く目の不自由な女性たちの姿が全国各地で見られました。三味線と唄という芸を支えに生きる、「瞽女」と呼ばれる人々です。当時は福祉制度などもままならなかったため、眼病を患った女性が自立して生活する道は極めて少ない時代でした。そこで彼女たちの多くは、三味線と唄を習い、米などの農産物と引き換えに身を削るような芸を披露していたのです。娯楽が少なかったこの時代、瞽女たちの三味線と唄は、明るさと哀しみを併せ持つものとして、彼女たちを迎える庶民にとっても数少ない楽しみの一つとなっていました。
 瞽女の活動は日本各地で見られましたが、中でも新潟県は瞽女の一大拠点として知られています。冬の長い期間を雪に閉ざされ、幼い子どもが麻疹(ましん)などの病気をこじらせて弱視や失明にいたるケースが多く見られたのも理由の一つであると考えられています。

高田と瞽女

 瞽女という呼び方については、静御前のように歌や踊りを職業とし、各地を流れ歩いた女性集団であるということから、「御前」がなまって瞽女になったという説があります。室町時代に成立したとされる職人を題材にした歌合「七十一番職人歌合」に、鼓を打ちながら歌う盲目の女性が描かれていますが、瞽女が初めて文献に登場したものとされています。
 瞽女の特徴として、それぞれの地方で「瞽女仲間」と呼ばれる組織を作っていたことがあげられます。盲目の男性「座頭」は全国的な組織を作っていましたが、それとは異なる組織作りが行なわれていたのです。各地にある「瞽女仲間」の中でも越後の瞽女は勢力が盛んで、信州から関東にかけても進出しました。そのため、瞽女といえば越後瞽女と言われるようになりました。
 越後瞽女は主に「高田瞽女」と「長岡瞽女」が知られています。この二つは同じ越後瞽女であっても性質が異なり、高田瞽女は「座元制」、長岡瞽女は「家元制」をとっていました。「座元制」の高田は、親方が家を構え、弟子を養女にして養うのが大きな特徴で、ヤモチ(屋持)と呼ばれた親方が座を作り、修業年数が最も長い親方が「座元」となって高田瞽女の仲間を率いていました。
 病気が原因で失明する子どもが多かった時代背景もあり、幼少の頃から瞽女の弟子になるケースが多く、弟子は幼子ながら唄と三味線の厳しい修業を積みました。親方から弟子へ瞽女唄を受け継ぐ方法は、すべて口伝え。七五調の文句が延々と続く瞽女唄を、一節ずつ区切って教えていました。唄の伝承は一日中続き、道を歩く時も風呂に入る時も、ひたすら暗唱させていたといいます。さらに大変だったのは三味線の練習です。教える方も教わる方も目が見えないのですから、教える親方にも労力がかかります。親方は弟子の背後に回り、棹(さお)を持つ弟子の左手の指に自分の指を添えて糸の押さえ方を、右手には撥(ばち)を持って弾き方を教えました。
 1年のうち300日は旅をしていたといわれている高田瞽女は、頸城地方の他に魚沼や十日町、さらに群馬や長野まで足を延ばして巡業をしていました。瞽女が訪れる村では、無償で瞽女たちを泊めて世話をしてくれる家があり、それは「瞽女宿」と呼ばれていました。瞽女宿となるのは地主などの旧家で、瞽女が訪れると村人を集め、瞽女唄の興業が行なわれました。村人たちは毎年瞽女が来るのを楽しみにしていました。娯楽が少なかった当時、家族総出で唄と三味線を聴くことは、人々にとって一服の清涼剤のような存在でもあったのです。

高田瞽女の掟(おきて)

 瞽女には「瞽女式目」「瞽女縁起」とよばれる、堅い掟がありました。高田瞽女の場合は「式目(しきもく)」といい、毎年5月13日に行なわれる妙音講(みょうおんこう※1)で朗読されました。
 瞽女社会における最も重い罪は、男性と関係を持つことです。これは「式目」に記載された「不行跡(ふぎょうせき)」の行為にあたり、犯した者は仲間を去って離れ瞽女となるか、仲間の裁きを受けなければなりませんでした。裁きには「年落とし」があり、罪の軽重によりこれまでの修業年数が5年・7年・10年と減らされました。瞽女社会においては年功序列が重んじられていました。席順などの生活全般に関することから巡業のときの荷物の置き場にいたるまで、あらゆることが修業年数によってランク付けされていたため、この年落としは大変辛いものだったと考えられます。
 この大切な「式目」は仲間で共有されていて、重宝として代々の座元が守り伝えていました。高田瞽女たちが巡業に出るときには、この式目の写しを荷物に入れて持ち歩いていたといわれています。

 ※1妙音天(弁才天)をまつり供物を供える集会のこと。高田瞽女たちは高田寺町の天林寺で弁天様をご開帳し、唄を歌ったりお斉(おとき)をいただいたりして1日を過ごしました。

高田瞽女:高田市,昔地図
明治中期、高田市発足当時の地図。陸軍の施設が多くを占めていますが、学校や寺町などは現在とさほど変わりません。この雁木の町に、当時90人近い瞽女たちが暮らしていました。


高田瞽女の始まりと終焉

 高田瞽女に関する史料は、江戸時代前期までさかのぼることができます。それによると、1681(延宝9)年、高田藩域に26人もしくは23人の瞽女がいたと記されています。正徳年間(1711~16)になると城下に12人、1742(寛保2)年に20人となり、1884(明治17)年に17軒69人、1904(明治37)年には19軒86人となり最盛期を迎えます。
 しかし、戦争の混乱や戦後の農地解放により、これまで高田瞽女を支えてきた地主階級が没落していきます。さらに、ラジオやテレビの普及により瞽女の活躍の場が次第に奪われ、廃業に追いこまれる瞽女が多くなっていきました。明治時代後期をピークに高田瞽女の人数は減少し、1922(大正11)年には14軒44人、1932(昭和7)年には23人、1944(昭和19)年頃には3軒となり、戦後にはとうとう1軒となってしまいます。このように多くの高田瞽女が廃業していくなかで、「高田瞽女最後の親方」と呼ばれ語り継がれている人物がいます。後半では「高田瞽女最後の親方」についてと、瞽女を語り継ぐ活動について紹介していきましょう。



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