file-96 越後の瞽女(後編1)

  

越後最大の瞽女(ごぜ)集団~長岡瞽女

 明治時代の初め、新潟県には700人ほどの瞽女(ごぜ 目の不自由な女性の旅芸人)がいたといわれています。その中で、最大の集団は「長岡瞽女」で、最盛期には400人を数えました。中越地方だけでなく、関東や東北地方にまで巡業に出かけ、瞽女唄を届けた長岡瞽女。彼女たちが残したものと地域の人々との関わりをたどります。

格式と規律を重んじる瞽女集団

長岡瞽女

巡業の旅には3人一組で出かけていた長岡瞽女。演奏する金子セキと中静ミサオ、手引き(案内役)の関谷ハナ。昭和48年(1973)7月13日、魚沼市大湯にて。写真提供/鈴木昭英さん

「門付け」

一軒ずつ訪問して瞽女唄を歌う「門付け」。膝を曲げて三味線を支えるのが立って歌うときのスタイル。写真提供/鈴木昭英さん

「瞽女本尊・弁財天」の絵

長岡瞽女・岩渕フサが所持していた「瞽女本尊・弁財天」の絵。芸能の神様として瞽女の信心を集めていた。写真提供/鈴木昭英さん

鈴木昭英さん

瞽女唄ネットワーク会長の鈴木昭英さん。長岡市立科学博物館長、長岡市郷土史料館長を歴任。民俗学、口承文芸、仏教芸能にも造詣が深い。

 かつて、長岡の大工町(現・長岡市日赤町)に「瞽女屋」と呼ばれた屋敷がありました。当主は盲目の女性で、代々「山本ゴイ」と名乗り、「瞽女頭(ごぜがしら)」として中越地方の瞽女を束ねていました。昭和20年(1945)の長岡空襲で焼失するまで、そこは長岡瞽女が集い、唄や三味線の稽古をし、旅の疲れを癒やす場でした。そして、年に一度、全員が集って芸の守り神・弁天様をお祀りし、瞽女頭の先祖を供養する集会「妙音講(みょうおんこう)」を行う大切な場所でもありました。

 長岡瞽女の先祖は、長岡藩主・牧野氏の息女、照姫との伝説があります。生まれつき目が不自由だったため、生まれを隠して家老の山本家へ養女に出され、成長したのちに分家。享保10年(1725)から、中越地方にある牧野家ゆかりの地域の瞽女頭を任せられたといいます。その時に通称を「山本ゴイ」と定めて、これ以降、受け継がれるようになったのだそうです。

 昭和45年(1970)から民俗学の実地調査で長岡瞽女を研究し、数々の著作や論文を発表してきた鈴木昭英さんに、長岡瞽女の実像について伺いました。
 「残念ながら、山本ゴイが牧野家に縁のある者だったという説を確かめる術はありません。けれど、このことが長岡瞽女の精神的な支えになり、格式と規律を重んじる瞽女集団になったことは確かです」。

 長岡瞽女は、「山本ゴイ」を頂点に、一人前と認められ親方資格を得た師匠が自宅で弟子を取るという、整然とした機構を作り上げていました。茶道や華道に見られる家元制度とよく似ています。

 「師匠がそれぞれ自分の家で弟子を取り、山本ゴイに習った芸を教える長岡瞽女は、いわば村里在住型。一方、長岡瞽女と双璧をなす高田瞽女は、師匠が高田の町に住んで弟子を同居させる都市集住型です」と、鈴木さんは越後瞽女でも地域によって集団構成に違いがあるのだと話します。
 「違いは、瞽女唄の唄い方にも表れますよ。町に暮す高田瞽女は、抑揚がなだらかで、表現も優しく、おしとやかな雰囲気。村々にいる長岡瞽女は、りんりんと力強く唄います。野性的な声は『鉄砲声』とも呼ばれていました」。

 また、特色はレパートリーにもあるそうです。
 たとえば、近世に江戸で流行した浄瑠璃の義太夫節(ぎだゆうぶし)・常磐津節(ときわづぶし)・清元節(きよもとぶし)(いずれも三味線を伴奏に語る音楽)などは、長岡瞽女の演目に残っていますが、高田瞽女には残っていません。
 譜面や台本に頼らず、師匠の唄を一節ずつ聞いては覚えることを繰り返し、自分のものにしていく瞽女は、歌詞も調べも三味線の演奏方法も、また曲目も、師匠の芸を完璧に引き継いでいきました。
 そうした積み重ねにより、地域による違いが際立ったと鈴木さんは分析しています。

最後の長岡瞽女、小林ハル

 明治時代中頃には400人を超えたという長岡瞽女ですが、昭和20年(1945)の長岡
小林ハル(当時72歳)と弟子の土田ミス(当時63歳)

昭和48年(1973)1月14日、阿賀野市の石水亭にて、小林ハル(当時72歳)と弟子の土田ミス(当時63歳)。現役の瞽女として最後の演奏をするハルの姿。写真提供/鈴木昭英さん

空襲で瞽女屋が焼失すると、より所を失った瞽女たちは散り散りになり、組織は崩れてしまいました。わずかな人数の瞽女が稼業を続けることになります。

 その中に、最後の長岡瞽女と呼ばれる小林ハルがいました。
 明治33年(1900)、旭村三貫地(現・三条市)で生まれたハルは、生後約100日で白内障により失明。4歳で三条瞽女の師匠について修業を始め、15歳で師匠を変えて長岡瞽女に弟子入りし、当時の山本ゴイの指導を受けました。
 鈴木さんが長岡瞽女の特徴と指摘する、力強く響く低音の声は、ハルの特徴でもありました。毎年寒の入りの1月5日から30日間、朝は5時、夜は6時から、極寒の信濃川の土手で精いっぱい声を出して数時間唄い続けたというハルの寒稽古は今でも語り草です。こうした努力を重ね、ハルは一人前の瞽女となって、新潟県内はもちろん、会津・米沢まで巡業の旅を重ねました。

 昭和48年(1973)、73歳になったハルは引退し、新発田市の福祉施設に入所しました。しかし、演奏をやめたわけではありません。家々を巡って軒先で唄うという、

金子セキ・中静ミサオ・関谷ハナ

大きな荷物を背負って旅する、金子セキ・中静ミサオ・関谷ハナ。この翌年で3人は巡業の旅を終えた。昭和51年(1976)7月24日、南魚沼市にて。写真提供/鈴木昭英さん

長岡瞽女の巡業スタイル「門付け(かどづけ)」の旅をやめたのであり、演奏会やイベントでは、鍛え上げた喉と鮮やかな三味線のばちさばきを披露しました。

 ハルの引退後も瞽女たちの「門付け」の旅はわずかの間続きましたが、最後に残っていたグループ、三島郡岩田村(現・長岡市)の金子セキ、中静ミサオと案内役の関谷ハナの3人も、昭和52年(1977)5月の春旅を最後に門付けの旅を引退。後継者はいなかったため、田園地帯を連なって旅をする長岡瞽女の姿は見られなくなったのです。

 昭和53年(1978)、小林ハルは文化庁より無形文化財の技芸者に認定され、翌年には黄綬褒章(おうじゅほうしょう 業務に精励し人々の模範となりうる人に授与される褒章)を受章。すると、いったんは消えかけた瞽女の芸が注目を集めるようになりました。
 そして、小林ハルの演奏を聞いて感動し、その芸を受け継ごうと決心した女性が現れました。その人の活動を支えるための「瞽女唄ネットワーク」もスタート。長岡瞽女の新しい歴史が始まりました。

 次回の後編2では、長岡瞽女の新たな活動と「今」に迫ります。

 


■ 取材協力
瞽女唄ネットワーク会長・鈴木昭英さん

■ 資料
「瞽女 信仰と芸能」鈴木昭英 高志書院 1996年
「越後瞽女ものがたり 盲目旅芸人の実像」鈴木昭英 岩田書院 2009年

■ 瞽女画像提供
鈴木昭英さん

高田瞽女については、過去の特集記事で紹介しています。
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